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四十章《陽成と月書》

「制約の言語回路」四十章《陽成と月書》


 この音は美しすぎるから、もう少し楽な音にしよう。美しすぎると誰も聴いてくれない。そういうことはよくわかる。美しいものに難癖をつける人はいない。でも美しすぎるものに、人は過敏に反応し、攻撃を加える。そういうこと。俺はよく知ってる。


 単なる美しさは、単純なもので構成されている。見え方が多様で、理解しやすい。単純なものは、適当に聴いてもその良さがわかる。


 美しすぎるものは複雑だ。一通りの見方を要求する。傲慢で軽薄だ。


 それだけのことだ。それさえ押さえていれば、後は簡単だ。俺は、音楽を奏でる。


***


 北城市第四。大陸の中高の序列一位。それが俺、陽成ようぜいの所属する学校だった。


 勘違いしてほしくないが、序列一位だからといって、皆が皆天才とか秀才とかもてはやされほめそやされるわけじゃない。


 複雑なことをやるのは愚鈍で、整備された道をいかに速く駆け抜けるかが、青年時代の攻略法なのだ。頭が良くない第四生も、そこそこの人数いる。


 学校での授業を欠伸をしながら受けて、昼休みには屋上でヴァイオリンを弾く。成績は下がるけど、誰かと競っているわけじゃないから別にいい。


 楽器を練習することと、勉強をすることは親戚みたいなものだ。エネルギーを投入し続けなければいけない点で、似通っている。


 ヴァイオリンも勉強も、複雑なことは必要ない。正解があるのだから。


 客観的には落ちこぼれで、主観的にも日々は苦痛だが、それでも城市大に行くのだと思っている。どれだけ落ちこぼれても第四にいるし、百傑には程遠いけど、ヴァイオリンは弾けるのだから。


 …………単純な作業をやることが、一つ一つ問題を片付けていくことが、才能のいらない簡単なゲームに時間をかけることが、…………成功の秘訣なのはわかっている。継続を継続し、積み重ねを積み重ねる営為によって、能力というのは開発される。


 努力をしている人を馬鹿にしてはいけないのだ。いくら先天的に恵まれていたとしても、その蓄えで三十歳より先に行くことはできない。そんなこと、少し考えればわかる。俺は聡いから。


 もう三年も続けている地道な作曲活動に一塊のファンがいる。


 高校に上がってから勉強する時間がなくなった。


 小さい頃好きだった語学の勉強もどこか彼方。昔よく連れていかれた島国にも、もう行っていない。


 母は高校の教師、父は記者。左翼的な一家で、俺を持て余す。


「大丈夫よ。どこ行ってもあなたの人生なんだから」


 母は暗に城市大を諦めるように諭す。


「第四に行けるのだから、十分すごいことだ」


 父は俺を慰める。


 俺は、それがどういう意味を持つのか、少し考えて理解した。


 即興で演奏するために必要な、基礎的なルールを見失い、いつの間にか踏み外し、取り返しがつかない場所まで来てしまった。


「そろそろ勉強しろよ」


 天秋てんしゅうは気まずさと苛立ちを半ばする苦言を呈した。


 中学から一緒の悪友。


「もうすぐ受験じゃないか」


「そうだったな。もうすぐ受験だ」


「舐めてんのか? ガリガリ勉強するのが嫌いなのはわかるぜ。けど勉強してないの、お前だけだよ」


「そうだな。勉強していないのは、俺だけだ」


「人生で緩んでいい時期なんてないんだ。陽成、言ったからな。キリギリスなんかになってアリに助けを乞うなよ。せいぜい頑張れよな」


 どうしたらいいのかはよくわかっていた。恥を覚悟で中学のテキストからやり直す。


 勉強することは嫌いじゃない。無目的的ににできるのなら、それ以上のことはないけれど、目的的にやるのだってそれなりに楽しい。


 高二になってからは音楽を休んだ。休んでいる時に限っていい音が脳裏をかすめる。笑いをこらえながら、高校の図書館で勉強する。何時間も何時間も沈潜する。そういうのは嫌いじゃない。体に刻まれる学習の痕跡に悦に入っていた。


 十時の閉館の時間まで、ひたすらに問題を解く。そういうやつが、マジョリティーな世界。少しびっくりする。


「音楽、やめたんだ」


 後ろから声をかけられた。


 月書つきがき。第四の首席。杖の魔術師。髪は灰がかって、長く下ろされていた。


「月書、久しぶりに話すな」


「あなたが人生を取り戻したようだから」


「ふ、面倒なやつらだ」


「コーヒーを奢ってあげる。二時まで開いてるから。一緒に勉強しない?」


「構わんよ」


 月書がやっている参考書は、本当にスタンダードな市販のもの。特別難しいわけじゃない。


 さらさらとペンを走らせる。


 マグに入れられたコーヒーは、数時間のうちに冷めて冷たくなり、それを口にして月書は苦そうにしていた。


 備えつけられている電子レンジでコーヒーを温める。空になった俺のマグにコーヒーを注いで持ってくる。俺はそれに気づかずに、なかなか減らないコーヒーを、いつまでもいつまでもすすっていた。


***


 俺が月書と勉強をしている姿を、何人かの同級生は認めた。やっかみからか、先生の元にもその話が行き、俺は先生に呼ばれた。恋愛なんてもってのほか。首席と付き合うなんて百年早い。


「ええ、俺もそう思いますよ。でも、事実はコーヒーを一緒に飲んで、勉強しているだけですから」


 実際それが全てで、そういえば昔は陽成も勉強してたな、なんて先生も思い出したみたいだった。


 月書とはそれからも一緒に勉強した。日曜でも学校に来て、図書館を開けさせて、夜になると喫茶店で、何時間も何時間も勉強した。無駄なことはやらなかった。音楽も語学も、楽しいことは何にもやらなかった。


 普通の女子だったら、こんな夜遅くまで外で勉強したりしない。


 この大陸の中で最も強い魔術師だから、堂々と自分のやりたいようにできるのだ。


 最下位(俺)と首位(月書)がつるんでいるのを見るのは久々と、軽く絡んでくるやつもいた。そういう中の夜地やちは月書の昔馴染みだが、俺とはあまり話したことがなかった。要領のいい女で、勉強は仕事、人生は娯楽のためにあると言って憚らない。象棋が好きで、たまに月書とやっている。


 月書はその時も単語集をパラ見していた。


 天秋と俺と、夜地と月書が、自然にわらわらと集まって、夏休みも冬休みも勉強していた。


 月書はコーヒーチケットを無限に持っていて、四人になってもコーヒーを奢り続けてくれた。


 第四の近くのラーメン屋には、週三で通っていた。タピオカスタンドでタピオカミルクティーを頼むのは朝昼晩と一日三回やってたし、とりあえず包子を買っていた。なにせお腹が空くもので。


 勉強も兼ねての読書はしていた。月書が実に適当な本を選んできて、それをみんなで買って読んだ。


 高二から動き出して、本は七十冊くらいは読んだし、参考書も十二冊は片づけた。俺の学力はそこそこのところまで回復した。


 でも、コトはそう簡単ではないことくらい、俺はきちんと知っていた。

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