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四章《鬱》

「制約の言語回路」四章《鬱》


 島国の高校に戻ると、がやがやした雰囲気に少しうんざりする。


「大陸はどうだった?」


 嬢憂じょうゆうはすれ違いざまに手を振ると、振り返って緻里に笑いかけた。


「大したことないよ」


「そう? 私がいなくて寂しくなかった?」


「嬢憂お前、僕のなんだというんだ」


「友達でしょ? なんか期待した?」


「期待させるなよな」


 いつもの掛け合いをやった後で、嬢憂は軽やかに体を反転し、廊下を駆けていった。


 向こうでも別の男子と駄弁っている声が聞こえるから、嬢憂には本気にならない方がいい。


 嬢憂は数理に明るいとか、母親が産婦人科医だということだけしか、彼女に関してオープンになっている情報はなかった。


 大陸とカリキュラムが違いすぎて、授業がさっぱりわからなかったが、緻里がまとう「全く問題ありません」オーラが、緻里への善意の供給の根本を締めていた。


 緻里の窮状にさといのは女子の方で、でも緻里の内心の動揺を読む、以憶いおくのような読心術師は、「嬢憂×緻里」の妄想小説を書くのに忙しく、手を貸す人は現れなかった。


 緻里が珍しく学校で「残業」していると、部活から帰った嬢憂が、気化する汗で香気紛紛とさせながら教室に戻ってきた。


 緻里は、数学の問題に何分も何分も考え込んで、周りも見えない。


 缶ジュースを開ける音はこれ見よがしで、緻里の意識の間に注意を挟ませた。


「飲む?」


「お前、いつか男に刺されるぞ」


「そうかもね。飲む?」


「誰が口づけ済みの缶ジュースにわざわざ口をつけにいくんだ?」


「緻里、このジュース好きでしょ」


「嬢憂のせいでたった今嫌いになった」


「ジュースに罪はないのに」


「この国でもその煽りはギリギリだが、大陸なら間違いなく遊女のせりふだよ」


「遊女ね。ところで、最近数学の授業で発言が少なくなったよね」


 緻里は答えない。


「無限に対する緻里の好奇心は、どこに行ったんだろう」


「なんか言ったか?」


「なんか聞こえた?」


 ピシャリと壁を作って、嬢憂は緻里の言葉を跳ね返した。


 数人が残る高校の教室で、嬢憂は教壇に立つと、チョークを手にして緻里が苦戦していた微積分の問題を解説した。


 教師も顔が真っ青になるくらい、理路整然とした授業で、陥りやすい落とし穴は前もって埋められていた。


「質問ある?」


「ありません……」


「完璧じゃない緻里なんて、緻里じゃない。風邪でも引いた? そんなんでいいの?」


「そんなんで? 何が?」


「別に」


 緻里は気づかなかったが、嬢憂の視線はしばしば緻里の指輪に向けられていた。


「別にってなんだよ。僕に何か文句でもあんのかよ」


「今度の定期試験。九科目で総合九百点。緻里に百点差つけて勝つ。私が勝ったら焼肉を奢ること」


 教壇から降りると、嬢憂は振り返ることもせずカバンを取り、帰宅した。


「緻里くん、災難だね。でも災難なのは、この状況に至ってまだ、自分がどこにいるのか気づかないこと」


 以憶は含みを持たせた言葉遣いで緻里にささやいた。


 この状況? この状況って何だ?


 緻里はこの時点では、何かが起こっているなんて考えになかったし、自分を取り巻く状況が、どのように変化しているかなんて、感じ取ることもなかった。


 テストが始まって、緻里はいつも通り自然に手を動かして解答した。詰まるところもないし、他愛のない児戯として処理していた。


 数学も対策さえすれば簡単に思えた。


 結果はいつも通り一位……ではなかった。


 一位を剥奪されたのなら、百歩譲ってわかる。でもその順位は、二百人いる同学年の間の五十番台。緻里は二位に上り詰めた嬢憂の後塵を拝することになり、百点はおろか、二百点以上差をつけられて大敗を喫した。


 わかっていると思っていた問題に、深淵な謎が含まれていたことに気づかず、表面的な暗記と上っ面だけの公式運用に頼った緻里は、自分がわかっていないことがわからなかった。


 肉を目の前で焼く嬢憂を、恨みがましくにらむこともできない。


「本当に百点差つくなんて、緻里何かあった?」


「それは僕が聞きたいよ」


 緻里は敗者の役目を負って、嬢憂に肉を焼いて提供する。


 繁華街の裏手にある、緻里が見つけた小さな焼肉屋。見つけた時に入ってみたいとは思ったものの、きっかけがなかったから、二年放置していた。


 嬢憂がおいしそうに食べるものだから、嬢憂を恨みに思うより、自分の不甲斐なさを噛み締めてため息がでる。


「北城市でなにかあった?」


 それは緻里も予想していた質問だった。というより、緻里は自分にそれを問うていた。


 龍に乗って夕焼けを空から眺めた思純との思い出は、緻里を弱くしたのだろうか。人を好きになってはいけなかったのだろうかと。


「特に何もない。僕の精進が足らないだけだと思う」


「男子はいつもそう言うね」

「嬢憂に言われると応えるな」


「緻里も肉食いなよ」


 悔しいことに肉は美味しかった。


 繁華街には雨が降っていた。


 嬢憂は折り畳み傘を取り出した。


「入る?」


 緻里は首を振ると、大陸で学んだ術式で、雨を弾く「傘」を構成した。


 駅まで歩く間にさまざまなことを話した。大陸の風土、人民の素朴なひととなり、苛烈な受験競争、恋愛のない中高。


「それで? 緻里はどう思ったの?」


「大陸の人々のことが好きになった」


「私たちよりも?」


「比べることなんてできないけど、ある面ではそれを肯定せざるを得ない」


「計算術式なんだね」


「嬢憂、わかるのか?」


「なんとなくね。解析はできないけど」


「島国は科学の国だから、計算は全て科学に献呈される」


 文学と科学。結局はこの対比で、大陸と島国は争っている。


 久しぶりに雨が降るのを見ると、緻里は体を疼かせる。


 風を読み、雨の軌道を体で感じる。いつもより大雑把にしか読めなかった雨に、緻里は働きかけた。突風が吹いて雨粒が巻き上がった。


 風がゴウと音を生じさせる。


 嬢憂は傘を閉じると、緻里の「傘」の中に身を寄せた。


「指輪してるんだ」


「そうだね」


「誰からもらったの?」


「誰からって?」


「自分で買ったの?」


「よく覚えていない」


 緻里の稚拙な返答に、嬢憂はそれ以上追及することをやめた。言い訳にならない言い訳は、単に「それ以上話したくない」ということを言い表わしてるにすぎないことだから。


 駅には雨やみを待つ人でごった返していた。つまらないことをしたと、緻里は雨に働きかけるのをやめた。やめたのに、立ち止まっている人の前で、いつまで経っても、雨はやまなかった。


「台風が来ているのかもね」


 緻里は言った。風を捕まえる緻里に、そんなはずないということは、わかりきっていたのに。


 雨はそれから何日も降り続いた。


 緻里は思純からもらった傘を肩にかけて登校した。丈夫なその傘はどんな風にも耐え、どんな雨をも染み通さなかった。


 高校の教室の窓から、降り止まない雨を眺めていた。かつていとも簡単にできた天候操作は、今やるにはとても億劫で、複雑なものに感じられた。


 意識せずにできていたことが、自分の手から離れていくことに、恐怖を感じるというよりは、どこまでも気だるげで、無気力で無関心になっていった。


 緻里からは「エリート」のオーラが徐々に欠落していき、鬱に苛まれた。


 他愛ないことと思い、いつものように階段を飛んで降りると、受け皿になる風の位置を間違え、床に衝突した。誰も見ていなかったし、受け身も取ったから大事はなかったが、「何か」がおかしかった。


 受験を控えた高三の夏、蝉の鳴く音、台風の襲来、上昇気流に乗りたくて、山に登り、風を捕まえたはずだった。


 乱気流に翻弄され、風の通り道を見失う。何とか台風の目までたどり着くと、高湿度の空気が重くのしかかり、緻里は徐々に高度を下げた。


 本当なら台風すら掌握できる緻里の能力は、今緻里を浮かび上がらせるだけでその仕事を終えていた。


 緻里は叫んだ。暴風の回廊は声をひたすらに無視し、かつて獅子ですらあったと自負するその咆哮は、今では子猫の鳴き声ほどの弱々しさだった。


 父にも母にも言えなかった。誰にも言えない。失われたものは大きく、しかも喪失の本源的意味を奪われていた。これまでの「実績」は、架空のもので、ただの勘違いではなかったかと疑われた。それはエリートの挫折であり、才能についての驕りからくる、報いだったのではないかと緻里を苛んだ。喪失なんかではない。お前は何もできていなかった。何の努力もなく、達成したとされていることも中がスカスカで、苦労したことが一度もないんだろ? そう。「本当」を実現するためにみんな苦しんでいるんだよ。


 再現することができない能力を、能力と呼ぶことはできない。


 緻里は塞ぎ込み、学校へ通うことすらできなくなった。


 思純の前で、雷撃を起こしたことが、事実だったか、緻里はもう確信できなかった。指輪に刻まれた大陸語をなぞることさえ、後ろめたくためらわれた。


 図書館で日中を過ごし、かといって受験勉強をするでもなく、読書に日々の無聊を紛らわす頼りを求めた。


 環状線に乗り、何周も何周も島国の第一都市を回り、時には涙をこぼすことさえあった。


 学校には足は向かず、コンビニで買った食事で、最低限の食欲を申し訳ばかり満たすだけで、段々と体重も落ちてきた。


 緻里がその間に理解したことは、世界は自分を中心に回っているわけではないということだった。そんな簡単なことが、簡単なことがわからなかった。そのことを痛感した時、それまでの自分本位な傲慢さに、それが幼さゆえのことだったとしても、我慢ならず、怒りにも似た自責に押しつぶされそうで、恐怖と呵責に涙をこぼしたのだ。


 当然ながら図書館の本(それはモンテーニュだったりチャーチルだったりした)は頭に入らず、理解できないのが実力不足からなのか、体調が悪いからなのかすら、明確に判断はつかなかった。ただのその合間に、緻里は大陸で学んだ術式の研究と、大陸語の系統だった学習を、手慰みにやった。それが、一番最近にやった、緻里の復活の手がかりだった。

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