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三十九章《青煙》

「制約の言語回路」三十九章《青煙》


 言葉の感じはもうほとんど北城市と変わらなかった。


 緻里は火鍋屋で、本当に久々に火鍋をつつき、何かが近づいている気がした。


 それと同時に、何もかもが嘘なのかも知れないと疑う気持ちになった。


 もぐもぐと腸詰を食いながら、ぬるくて甘くて濃い梅酒を飲む不銘は、俯瞰して運命を眺めるなんてことなく、何かを待っている素振りもなかった。


 不銘は振る舞いが幼いのに、酒を飲む時だけは崩れない。カランと氷を泳がせて、大人な笑みを浮かべ緻里を見つめる。よそを見て飲んでいる時も、チラリと、不銘は緻里に視線を寄越す。緻里はそれに気づかないわけじゃなかった。


 店内はガヤガヤと声がする。鍋の底も見え始めて、そろそろ仕舞いかという時に、不銘は手元のメモに、とある住所を書きつけた。


「覚えているのはこれしかないんだ」


 とある寺院の住所だった。北城市の郊外。


「ここは?」


「青煙。私はここにいく方法をずっと考えていた。どこかわからない、何があるかもわからない場所」


「まるで何かがあるみたいだね」


 緻里の言葉に不銘は驚いたようだった。そう言われて初めて気づくことがあったみたいに、自分の言葉をなぞり反芻する。儀式的に梅酒で喉を浸す。


「青煙で、君を降ろせばいいの?」


 不銘はまたしても目を見開いた。


「緻里、ありがとう」


 不銘は半自動的に感謝を口にしていた。


「緻里には力がある。多分それは、心の中に大切にしたいものがあるから。本当に孤独な人は、人を助けたりしない。人から奪えるものを奪い、喰らえるものは何でも喰らう。本当に大切なものがあるから、不可侵の安寧が緻里を優しい人にする。呆れた? 君を降ろせばいいのなんて冷酷。哈哈」


「青煙がどんな場所かは知らない。そこに何があるかもよくわからない。そもそも僕は、君のことを知らない。行きずりだからね」


「酔った?」


「そうかもね。ごめん。そろそろ僕も自分の身を守らないと」


「冷酷になる準備」


「そう。段階を踏まなくてはね」


 緻里の冷ややかさを、不銘は予想していた。それでも特別冷たい当たりを和らげることはできなかった。可愛いだけの女は妾にしかならないと、そんなことを思った。緻里の特別席は、もうとっくに思純に占められていて、不銘はだからこそ曖昧な位置に身を置くことができた。思純の不在、緻里が空白に縛られている状態が、わずかな時間だけ不銘に有利に働いた。


「きっと緻里は、私のことすぐ忘れる」


「それは僕の悪い癖だ」


「特別な人がいるから、私にも手を出さなかった」


「さすがにもったいないとは思ったよ」


「哈哈哈哈哈」


 不銘の笑い声は高く響いた。「アア、涙が出ちゃう。ねえ、ここで、私が、もし何か一つ願いを叶えてあげるって言ったら、緻里がなんて言うか当ててあげる」


 今度は緻里が笑う番だった。


「なんというか、適当な偏差値の設問だね」


「でも、IQより高貴な生まれが求められそう」


「高貴、ハッ、高貴ね。否定したくないな」


「わかるよ、緻里は高貴なことを誇りに思っているから。答えはね『今すぐ僕の前から消えて』だよ」


「すごいね」


「付き合い長いから」


「そのココロは?」


「『施しをもらうほど落ちぶれてねぇよ』」


「すごいね」


「緻里は、人に施すことで人を貶めていると思う。そうなんだよね」


「不銘は最初から最後まで」


「なあに?」


「最初から最後までいい話し相手だったよ」


「乾杯」


「乾杯」


***


 道は段々と複雑になり、標識は目に見えて多くなっていた。道も時々渋滞し、空気も塵が混じるようになった。歩行者が歩道を歩く、そのカラッとした服装に、緻里は何度か確認するようにうなずく。ここはもう北城市だと。


 不銘は途中で寄った本屋で買った魯迅を読んでいた。


「つまり、何にもないのに何かあるなんて一言でも言ったら、ホラ吹きになってしまうのね」


「そんなことを魯迅が言っていたの?」


「私の解釈」


「不銘は可愛いよ」


「可愛さを売ったらどうなるか知ってる?」


「言葉はただだからって、耳触りのいい言葉を言う人がなんて呼ばれるかと一緒だね」


「緻里に自分が男娼だって自覚があったんだ。意外」


「不銘に自分が娼婦だって認識があったとはね」


「魯迅を読んで再確認した。でも、男娼と娼婦だったら立場は一緒。きっと相性がいいの」


 北城市の郊外、広い北城市域の縁で、湖と山が隣り合わせになっている青煙。


 暗くなって、心許ない道をガタガタと走破して、もう外車もだいぶ汚れていた。


 湖に、明かりが浮き彫りにする青煙が映り込んでいた。


 雨が湖を叩く。


「娼婦は神に通じるのよ」


 紅傘を差して不銘はこちらを見ずに呟いた。


「それは人の世を攻略できない存在への、空虚な代替措置だよ」


「そうかも。そう言われるとそんな気がする」


 秋口になったのか、夜は少し冷える。灯籠が階段を照らしている。


 それを一歩ずつ踏み締めていく。


 先を進む不銘の背中は徐々に遠くなる。


 ふっと意識が途切れる。緻里は眠くなったのかとまぶたをこする。


 絵を描く時に雨が線になるように、灯籠には線が刻まれていた。


 雨の糸という意味の大陸語があったはずなのだが、緻里はそれが思い出せなかった。


 音もなく何かが右を通り過ぎていった。振り返っても何にも跡がない。それが二回。


「そっか」


 そうこぼした不銘は、もうずいぶん先に。まぶたが重い。


 上がった境内に残されたのは、紅傘だけだった。


***


「その傘まだ持ってたんだね」


「うん」


 不銘は答えた。


「少し遅かったね」


「うん」


 不銘は答えた。


「わざわざ来てくれてありがとう」


「わざわざなんてことないよ。久しぶりだね」


 不銘は答えた。


「傘をあげた時から、会えないことはわかってたよ」


「会えたよ。わたし的には、会えたと思ってるよ」


 不銘は答えた。


「待ってたよ」


「こんな狭間では、何にも残せない」


「残すことに意味はないのさ。精神とは形を持たないから。××、時間粒子なんて存在しないだろ? それと一緒だよ」


「なんで私を置いていくの?」


「確かあの日も雨が降っていて、僕は戦争に行くことを君に告げた」


「南学も仮越も帰ってこなかった。なんで?」


 不銘は聞いた。


「そういう巡り合わせだったんだよ」


「そんなの嫌だよ」


「××は、これでいいの?」


「緻里は恋人を無くしただけで、その恋人は失われたわけじゃない。でも私にはもう遡る過去がない」


「青煙はそういう人のための場所だ。よくたどり着いたね」


***


「にいちゃん、おい。にいちゃん」


 青煙の境内で眠りこけていると、朝早い参拝客に声をかけられる。前後の意識が抜けている。傍らに傘。


 不銘のことを忘れているとか、そういうオチはなかった。緻里はただ、身を包んでいた温かみが失われたような喪失感にぼんやりとらわれている感覚があった。


 不銘がどこへ行ったかは、緻里にはもうどうでもいいことだった。

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