三十八章《火鍋》
「制約の言語回路」三十八章《火鍋》
流れの中にいると、自分が何をやっているのかわからなくなる。
流れの外にいると、どんどん冷めていく自分がいる。
本流から離脱していく感覚は緻里にはない。自分の人生にこだわりも関心もない。
それは、緻里が概ね満たされた人生を歩み、選択することのできる環境にいたからに他ならない。親に恵まれ、友人に恵まれた。
それはちょうど生活に困ってなくて、コンビニで飲み物を買うのに躊躇いがない、というようなことに等しい。「いつでも棄てられる」と思っている。加えて言えば、コンビニの飲み物くらいなら、いつでも買ってあげられる。
そういう人間は虚しいと、緻里は思いもしなかった。優しさの理由は、通底する無関心のため。
なめらかなコミュニケーションを取るから、そういうものは背景に沈む。
***
緻里は朝早く起きると、まだぐっすりと寝ている不銘を起こさずに、故湖の町へ出た。
ところどころ店は開いていて、朝ご飯を売っている。
早起きの外国人がキョロキョロしながら歩いている。
緻里もその一人。
粥とマントウを食べ、不銘の朝食も買って、旅館へ戻った。
不銘はまだ寝息を立てて寝ていて、外はもうかなり明るくなっていた。
緻里が広げていた荷物を整えていると、もぞもぞという物音がして、不銘が起きてくる。
緻里の存在を認めるが、反応はない。
洗面所の方へ行き、シャワーを浴びる。しばらくすると髪を乾かす音がする。
「わすれもの」
と言って、不銘はカバンを漁ると、またバタバタと洗面所に戻る。簡単に化粧をする。
「ふう」
一息だけで、何も言わず不銘はテーブルの上にあったマントウを食べ始める。特に礼を言ったりはしない。
薄いシャツからは後ろの肌が透けて見える。不銘の黒い髪はまだまとめられる前で、半ば無造作に垂れていた。
食べ終わると不銘は千智を見て、まじまじと眺めた後、ニコッと微笑んだ。それから意を決したとばかりに席を立つと、腕に巻いていたゴムで髪をまとめ、結いた。
「ほら緻里、行こっ!」
不銘のあまりの自由闊達ぶりに、緻里は感心してしまう。
旅館の費用を精算して、車に乗る。街道沿いに川が流れていて、地図を見るとその本流が、次の町「福接」に続いていることがわかる。
本流と並行して敷設された道路を、かなりのスピードで走る。もうずいぶん南にくだったからか、窓を開けると少し熱気が入ってくる。乾いた気候だから、こちらが汗をにじませることはないが、肌は小さな塵を感じる。
不銘がペットボトルを傾けて水を飲む。ちゃぷと音がして、緻里はくすりと笑う。
それに応えるように不銘はそのペットボトルを緻里に渡す。緻里はまた笑った。嬢憂がよくやっていた、間接キスで精神を揺さぶるアソビ。戸惑ってないと主張するように、さりげなくペットボトルを受け取るのも、逆に意識しているようで恥ずかしい。だからとて過敏に戸惑うのも、わざとらしくて不銘の意図するところとは外れる気がする。
こういうのは慣れている。まず一言言えばいい。
「いいの?」
これだけでいい。
「いいよ」
運転に集中していると主張するように、軽くペットボトルの口を噛んで、唇を離す。
不銘は実に楽しそうにこちらを見つめてくる。目を輝かせて今にもケラケラと笑い弾けそうだった。
そちらを見ないと意識していると思われそうだから、緻里は不銘を一瞥する。それだけの視線の交換だけで、場に抑揚がもたらされる。一方的なやりとりではなく、行為に複数性が保たれる。
緻里は更にペットボトルを傾け水を飲む。「喉が渇いていたんだ」と言わんばかり。
アテが外れたと、不銘が今度は不服そうな顔で緻里を睨む。
「やはり少し暑いね。喉が渇くよ」
「そうよね」
「ありがとう、返すよ」
「返すよ?」
「ん?」
「なんかないの?」
「ありがとう」
「んん?」
「え?」
「なんかないの?」
「いやだから、ありが、」
「もういい。ちょっとしたネタだったのに、体面を気にして無視するの? 女の子がおどけてるのに素面ですか。そう。あと一時間は口利いてあげない」
緻里は不銘のその態度に、内心かなり惹かれるものがあった。不満そうに唇を尖らせるのも、グッとくる。
「女慣れしてるんだ。不愉快」
それから本当に一時間、不銘は口を利かなかった。律儀に時間を測っていたのが緻里には実に可愛く見えた。
***
車の速度を落とさずに、窓を開けて走ると、空を飛ぶ時とは違う風が、緻里の耳を抜けていく。
夏の翳りはまだ少し先か。気温は二十五度六度。島国のうだるような暑さと比べると、ここはまだ北で気温は低い。
不銘は助手席ですやすやと寝ていた。
大きな川が合流する地点に、福接はあった。大きな都市で内陸の物流の拠点でもあった。
中くらいのビルがたくさん並んでいる。高層ビルを建てるほどの資本状況でもないが、平屋でやっていくほど呑気でもない。
ホテルを探したが、故湖で泊まった旅館は望むべくもなく、二人で泊まれるホテルを探すのに、かなりの時間をかけた。
不銘は街中に入ると起きて耳をそばだて、嬉しそうな顔を見せた。
「緻里、ワクワクするね。私こういうところ好き」
鉄道の高架をくぐり、繁華街の渋滞を抜けて、ホテルの駐車場に車をつける。
町に似合わないシックなホテルだった。
街へ繰り出そうと不銘は言った。
「誰見てるの?」
不意をつかれた。油断していた。
「ねえ、今、あの年上の綺麗なお姉さん向けて、視線を泳がせていた、よね?」
「素敵な雰囲気だったからね」
「確かに。確かにそれはそうかも知れない。もちろん、私は緻里の恋人じゃないし、でもでも、隣に友達の女の子を置いておきながら、雰囲気に釣られてって、私だって雰囲気悪くないし、極めて遺憾です」
緻里はクスッと笑った。
「何で笑うの?」
「不銘が可愛いから」
「何それ? 女舐めてるでしょ。彼氏面すんなよ」
「それを言うなら不銘だって彼女面してる。僕は、それでもいいけど」
「どういうこと? それは私を彼女にする気があるってこと? それとも単に萌えポイントってこと? 島国の男の方はこれだから、去勢されてるって言われるの。ハッキリしてよ」
「僕は、大陸の女性の可愛いところは、すぐにカッとなってまくしたてるところだと思ってる。可愛いというか、心が掻き立てられる。議論している時の顔の紅潮とか、その舌の回り具合とか」
「わざとってこと?」
「わざと?」
「それって私が緻里の視線移動に引っかかって、ムッとして、怒っちゃうところまで、緻里はニマニマしながら眺めてたって、そういうこと?」
緻里は改めて言われるとびっくりするくらい正鵠を射た不銘の表現に、動揺して戸惑う。「いやそのそれは」
「言語ゲームが好きなのね。友達やめよっかなー」
「悪かったよ。もう目移りはしない」
「火鍋でも囲む?」
カラッとした声で、話題を変える。不銘のリズムはかなり心地よい。
「夏だぜ」
「夏だから。悪くない選択でしょ?」




