三十六章《詩学》
「制約の言語回路」三十六章《詩学》
「騒がしね」
「ああ、戦争だからね」
「緻里は逃げないの?」
「戦は好きなんだ」
「男の子だね。強いから。笑っちゃう。強いから戦好きなんてまるで、本当に強いみたいじゃない」
不銘はカラカラと笑った。遊女が客を嗜めるみたいな、色艶のある声だった。「わかるよ、強いなんて思ってもいないんでしょ? 当たり前に強いんだから。あはは、たのもしーい」
がやがやとしたショッピングモール、食料品を求める長蛇の列。メガネ屋が混んでいるはずがなかった。
「いろんなメガネがあるね。呑気だよね。戦いが迫ってるはずなのに」
不銘が話す大陸語に、多くの人が振り返り、不快の念を送っていた。答える緻里の声に対しても同様。でも、不銘はそれに気づいていなかった。
メガネを買い、下着を買い、満足気な不銘。
「どう? 似合うかな」
細いつると薄いふち。
「うん。可愛いと思う」
「可愛いと思う? それはメガネが可愛いの? それとも私が可愛いの?」
「不銘が可愛いんだ」
「ありがとうございまーす」
「不銘は、大陸のどこ出身なの?」
「北城市だよ。訛ってるでしょ?」
「北城市ね」
「緻里も訛ってるから、親近感湧くな」
「これが正統なのですが」
「昔は南に都があったんだよ」
「千年前の話ですが」
「女の子が珍しく蘊蓄垂れてるんだから、うんうんそうだねって言ってよ」
「そうだね。わかるよ」
「遅いよ、もうっ!」
不銘のために女性物の服も買う。たどたどしい雪国の言葉で、なんとか緻里は買い物を済ます。実際は違うのだが、緻里は外からはどう見ても大陸人で、睨みつけられることになる。
食料を揃え、車で家まで帰る。変なところで渋滞していたり、車を充電するのに長い時間がかかったりする。
疲れを知らないのか、不銘は進んで家事を引き受ける。メガネをかけているのに心が躍るらしい。鼻歌を歌っていた。
「万緑叢中紅一点〜」
「王安石だね」
「王安石?」
「その漢詩」
「姑蘇城外寒山寺〜」
「それは張継」
「ふふ、詳しいね」
「有名な歌だから」
「文学が好き?」
緻里はうなずいた。
「大陸人だねぇ」
「そうかもしれない」
「緻里の大陸語は、隙がないから」
ジャスミン茶を淹れる不銘。杯を傾ける。
ダボついた服から、今日買った女性物の服をまとうと、艶のある髪と理知的なメガネも相まって、不銘は雰囲気を変えた。
高校生の頃、嬢憂と平日に出歩く時、いつも彼女の私服に感動していた。
人は違うが、それと同様の感動を覚える。
ついさっきまで幼いと思っていたのに、いつのまにかお姉さんになっている。
不銘はペタペタとフローリングを裸足で歩く。何だかいかにも大陸人だという感じすらしてくる。大陸人。もしかしたら大陸人とまともに話したのは、本当に久しぶりのことなのかもしれない。
大陸と島国は、戦争しているから。その事実に今更気づく。
「どうした? やはりメガネの破壊力には敵わないか? ふふふ」
「大陸に戻りたいとは思わない?」
「北城市の雨は、確かに懐かしい」
「雨?」
「うん。南学とも仮越とも、雨の中で別れた。また会えたら、ふふ、そんなこともうできようがないのに、緻里が言うから思い出したよ」
「詩情が浮かぶね」
「そうね。ごく個人的なことなのに、情景として、とても普遍的で、やはり懐かしいというのが、これだけでも伝わるんだね。ところで、緻里、あなたは哲学が好き?」
緻里は首を振った。
「意味のあることは嫌いなんだ」
「雨が降って、別れて、雨が止んで、傘をしまって。全ての哲学は、このことに何の省察も加えられない。哲学は無意味だよ」
意味のあることは嫌いだと言ったのに、哲学を無意味だと言って切り捨てる不銘に、文脈を逸脱した妙味を感じる。意図したわけではないとしても。
「南学とは故郷が一緒だった。仮越とは中学が。やさぐれて落ちこぼれた私たちは、いつもいつもつるんで、屋台でご飯を食べてはカラオケに行き、本屋で何時間も時間を潰して、互いの家でお茶を飲んでいたの。もちろん図書館で勉強したりもしたよ。何時間も何時間も、ご飯も寝る間も惜しんで惜しんで、一生懸命やったのさ。苦しくても苦しくても、上流へと漕ぐボートのように、漕ぎ続けなければやがて流されて、私たちは海で漂流することになる。そう思ってたのに、やはり私は漂流した。南学も仮越も、もう隣にはいなかった。何でだろ。あんなに仲が良かったのに、私は、彼らが好きだったのに、どこへ行ったんだろう。どこへ行ったんだろう。
渭城の朝雨 軽塵を浥す
客舎青青 柳色新たなり
君に勧む更に尽くせ 一杯の酒
西のかた陽関を出ずれば 故人無からん
そう言って送り出してくれたのに。寂しい、また会いたい。逃げてきたのに。北城市が嫌いで、ずっとずっと逃げてきたのに、帰りたい。みんなに会いたい。王維は思わなかったのかな。帰らなかったのかな」
「みんな忘れてるよ」
「そんなことない。そんなことないよだって、あんなに仲がよくて、いろんなこと話したのに」
「みんな変わってるよ」
「そんなことない。南学はバカだけど真面目で、仮越は孤独だけど優しくて、変わってなんかいない、そんなわけないよ」
「変わってなかったら、また中学をやり直すの?」
「わからない。ほんとにわからないの。だってもう二度と会えないなんて、そんなこと思いもしなかった。思わなかったよ」
大陸独特の、感情を言葉に乗せる詩学。涙を流すのではなく言葉を尽くすことで、自身ではなく場に介在した精霊の魂を鎮める。
事実ではなく感情を、自分の中のより深いところから引き出す。深く掘る。深く深く。苦しくても鉱脈を探り当てるように。
緻里は不銘をじっと見ていた。
不銘は至る所から持ってきた言葉を、巧みに構成し表現する。
緻里は敢えて不銘に反対し、更に言葉を要求する。
「寂しい? それを好んで独りになったんじゃないの?」「苦しい? その苦しみが解消されたら、不銘はどう感じるの?」「思い出になったものを改めて現実化する必要は、一体どこにあるの?」
不銘は太ももに爪を食い込ませる。唇を噛み、頬をひきつらせる。眉間に皺を寄せ、息を抑える。
「北城市に帰りたい」
全てを言い切った後の残された結論。
電話が鳴った。緻里が取る。希羊だった。
「緻里くん、戦争が始まった。在留邦人の国外退避に合わせて、私も脱出する。君も急ぐといい」
「わかりました。少し遅れるかもしれませんが、島国でまた」
「ああ。ではね」
「島国に帰るの?」
「まさか、一緒に大陸に行くんだよ」
「北城市は遠いよ」
「でも、あの雨は懐かしい」
「でしょ? 哲学の介在する余地がないわ」




