三十五章《不銘》
「制約の言語回路」三十五章《不銘》
「綺麗」
大陸語でこぼした。紅傘は傘を回した。
「あなたがこんな風にしたの?」
思純ではない。でも。でもその声は、緻里を強く惹きつけた。
「すごいね。この傘だけは取られないで済んでたけど、この日のためにあったんだね。火の粉が、雪が、熱くて冷たいから」
「その傘は誰かにもらったの?」
緻里は聞いた。
「よくわかるね。そうね。少し大きいものね。男物だし」
緻里はしばらく紅傘を見つめていた。
「面白いの、何でそんな真面目な顔しているの? 誰かを殺したかったわけじゃなくて、ただ殺したかったんでしょ?」
「うん」
「悪徳にまみれてみたかったんでしょ?」
「うん」
「汚れたかったんでしょ? 小さな汚れを落とすために泥を塗るみたいに」
「うん」
「おいでよ」
ザッと足が紅傘に向く。
「泣いてるの? もう会えないから?」
「うん」
紅傘は緻里の涙をぬぐう。
「大丈夫だよ。また会える。また会えるよ。そうじゃなきゃ人生つまんないよ」
「君は?」
「私は?」
「名前」
「名前? あなたは?」
「緻里」
「変な名前。外国人なんだ。私は、……なんてどうでもいいか」
「どうでもよくない」
「私の名前?」
「そう」
「実は持ってないんだ。私に名前はない」
「ない?」
「よければ、緻里が名前をつけてよ」
「不銘」
「不銘ね。よろしく、緻里。……ところで、私はどこに行けばいいのかな?」
「僕の家に来ればいい」
不銘はその時初めて、嬉しそうな顔をした。それは、思っていたこと、想像していたことが実現した時の、意外な喜びだった。
不銘はまだ二十歳にもかからないくらい若い女で、髪は長く、額が広かった。
話している間ずっと笑っていた。笑顔以外の表情を忘れてしまっているように。
***
不銘は緻里の家でシャワーを浴びた。
服はかなりサイズが違ったが、緻里のものを着た。
朝になっていた。
緻里は簡単な朝ごはんを作り、不銘と一緒に食べた。
不銘はソファに丸まって眠っていた。
緻里が引き連れた冷気は夏の朝を凍えさせた。暖炉に火をつける。
希羊大使に、午後から出勤すると連絡して、緻里も眠りについた。
深い眠りで、夢は見なかった。
昼前に、コトコトと音がして目を覚ました。
「勝手にキッチンを使ってごめんね。緻里、お昼ご飯を食べよ? 簡単なもの。ソーセージがあったからポトフにしてみたの。パンも温めた。コーヒーも作った。いいでしょ」
緻里は目をパチパチさせて、ゆっくり体を起こし、不銘の笑顔を見た。並びの悪い歯が、少し間抜けな感じを出していた。緻里も微笑みを返した。
緻里に借りたシャツには、勝手に取り出したネクタイが締められていて、ズボンにはベルトが巻かれていた。裾はシャツ、ズボンともにたくしあげられて、肘元の袖には調理をした水のあとがついていた。
髪がポニーテールにくくられていて、清潔で清純な感じかした。
緻里はしばらく声が出なかった。
「毒は入ってないよ。どうぞ召し上がれ」
不銘の言葉は、緻里の耳に入っていないようだった。
不銘の黒髪からは、女の子の香りが漂ってきていた。ふわっと軽い、でも芯のある香が、……と、不銘はゆっくり緻里に近づいてきた。
「ごはん、食べないの?」
「いただくよ」
「似てる?」
「いや。似ていない」
「傘だけ?」
「それでも理由にはなる」
「緻里は純情だね」
ポトフは、薄味だった。
パンはバターが塗ってある。
不銘が「純情」という単語を使うのに、違和感があった。意外と言った方がいいのかもしれない。年少の不銘が、そういう言葉遣いをするのが、腑に落ちない。驚きでもあるし、底を見透かされているようで怖くもあった。
胸につける下着はなく、シャツの下に直接肌が触れていて、膨らみは緻里に生唾を飲ませた。
体の線がすごくタイトだというわけではない。でも無駄な肉はついていない。
スープをすくうスプーンを持つ不銘の手は、とてもとても小さかった。それが全てを言い表している気がした。
ポトフをほとんど何も話さずに食べ終わると、緻里は簡単に家の説明をして、自由にしていてほしいと伝える。
「詳しいことはまた夜にでも。僕は仕事に行ってくる」
「はァい。気をつけてね」
靴を履く緻里の肩を、ポンポンと叩く。
「何か必要なものはある?」
「メガネかな」
「目が悪い?」
「ううん。でも、メガネつけてると落ち着く」
「わかった」
「丸くて金縁の大陸風はいや。なんだったらプラスチックでもいいけど、大陸風は、似合わないから」
緻里は不銘に似合うメガネのことを考えながら、大使館で希羊に昨晩のことを報告した。
島国国内のルートから、クラハが無事島国に着いたことを知ると、安堵より先に羨望を覚えた。
キルトケーキはクラハのなんだったのだろう。
ミサイルが落ちたラーザ空港は当面使用できず、脱出のルートは東の港に限られた。
有事の際の邦人の救出に、本国の支援を頼もうにも、東の港を封鎖されると、全く身動きが取れない。
雪国の大陸人のことを考えれば、全てを袋小路にすることを、大陸が実行するとは思えない。でも、そんなことを考えず、雪国の領土をまるっといただく方が、うまみは大きい。
軍事作戦、陸上侵攻はまだと見積もっていたら、電撃的に襲いかかってくることも考えられる。
とかなんとか考えていたら、ミサイルでの空港破壊のニュースを聞いて、島国に避難しようとする雪国の人々が、ビザを求めて大使館に殺到してきた。それが午後四時のことだった。
大陸の動向を探りながらのことで、大使館は忙しさでてんてこ舞い。
緻里は関係部局の武官と相次いで面会し、本国にもかけ合って、法人輸送船を手配した。
めちゃめちゃ頑張って、東の港を安全地帯にするよう世界機構に働きかける。
だがそれも、大陸と島国の関係で、東の港を攻撃する口実になりはしないかと雪国の高官が難色を示す。「ガタガタ言うな」と飲み込ませて、邦人の避難を開始する。
島国の言葉を話せるルシュタルトが難民となることを選んだかどうか、緻里は感知できなかった。
家に着いたのは深夜三時で、明日も朝六時から働かなくてはいけない。
メガネを買って帰られなかったことを、不銘に謝らなければならなかった。
「おかえり、緻里」
鍵を開けると玄関に不銘はいた。
「ごめん。メガネを買えなかったよ」
「いいよ。でもメガネをかけた私は、きっと可愛いと思うんだ。試してみてくれないかな? あ、ご飯食べた?」
「まだ」
「もしよければ炒飯でも作るよ」
暖炉の火は消えていた。
油が弾ける音、使われたニンニクの香り、手慣れた手つきと無駄のない動き。
あっという間に炒飯と中華スープを作り、醬で炒めた野菜を添えた。
あまりにも美味しくて、かきこんでしまうと、それから眠気に襲われ、ベッドに倒れ込んだ。
扉を隔てた台所で皿を洗う音がする。「半眠半醒」の意識に、なめらかに流入する家庭の象徴だった。




