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三十四章《分裂》

「制約の言語回路」三十四章《分裂》


 ラーザ空港へと向かう間、車の助手席に座ったクラハは、名残を惜しむように早口に、様々なことを話した。


 でもそれは「やはり島国の言葉も習わないとな」といった、軽い調子のものがほとんどだった。


 クラハに内実がないわけじゃなかった。雪国の貴族としての経験から大幅に逸脱する、亡命という行為に、後ろめたくなっているだけだった。


「島国につてはあるの?」


「兄弟、心配するな。金は持ってきているんだ」


 緻里は笑みつつも返事をしなかった。「すまない」とクラハは言った。


「僕の顔が広ければ、あてになる人を紹介できたかもしれない」


「気にするな。緻里の仕事は親切にすることではない」


「そうだね。でもそう言われると、少し虚しい」


 クラハはそれに答えなかった。


 緻里がワイパーを動かしても、クラハは「雨か」とも言わない。


 緻里の虚しさの表明は、正直だからということではなかった。それよりむしろ、文脈の中にはめ込むピースが見つかったから言ったに過ぎなかった。虚しくないわけじゃない。でも、それよりふさわしい言葉があるはずで、でもそれは、緻里の口をついて出ることはなかった。


 雨は淡々と地面を濡らす。


 夜の雪国の道路を走る車はわずかしかなかった。


 緻里が車のスピードを落とし、それからまた上げた。それだけの行為で、クラハは顔をこわばらせた。


「『兄弟』、請け負った以上無事を約束する」


 緻里は言った。クラハは返事をしなかった。


 クラハは体を震わせ、歯の根は噛み合わずガチガチと鳴っていた。


 そうか、クラハは温室で育ったのか、自分と同じではないのだと、緻里は冷淡になる自分を感じた。


 能力がないというのは不自由なことだ。金が能力の代わりになると、本当に思っている。半ば軽蔑するように、緻里はミラーでクラハを見た。


 葉巻を吸い、大陸語を操る貴族。


 生まれを誇ることはなくともにじむオーラは、それが消えることで、かえって彼が貴族だったことを示していた。


 何者であるかをラベリングして理解することは、卑しいこととわかりつつ、それをただすだけの余裕を、緻里は今持ち合わせていなかった。


 緻里とクラハの関係は、友人同士という間柄から、ボールを握り続ける強者と、役務の提供を受けるだけの弱者という形で、対等な立場を失った。


 ついさっきまで緻里とクラハは、強者の同盟で結ばれていたのに。


 ハンドルを握る緻里は、ミラーに映る車が何なのかがわからなかった。


 雨が微妙に視界をぼかす。


 電話が鳴った。クラハはその電話を取る。震える手で取ったはずなのに、「もしもし?」と、電話口の声はいやにはっきりしていた。


 しおれた茎に水分が染み通ったように、クラハは背筋を伸ばし、「キルトケーキ」と名を呼んだ。


 キルトケーキとクラハが、一体どんな関係なのか、緻里にはわかりようがなかった。


 緻里の運転する車は、もう少しでラーザ空港に着く。


 管制塔が見える。明かりが灯っている。


 雪国の言葉、クラハのそれは訛っていて、緻里は聞き取ることができなかった。


 ゲートは自動的に緻里の車を通した。緻里はゲートの仕組みをわかっていたわけではないけれど、開くような気がしていた。


 度の強いメガネをかけて、視界を歪めながら走るように、全てが奇妙だった。


 緻里は、その風景を懐かしく思った。力を限界まで解放する時の、世界との間に生じる不和。全てに嫌われていると感じること。緻里ですらそうなのだから、クラハが感じる分裂は、並大抵のものではないはずだった。


 自分の意思が世界に無限に受け入れられる快感と、それでも世界に裏切られるかもしれないという恐怖。


 自分にできないことを誤ってしてしまうチグハグなあやとり。


 全能感は最高潮。


 緻里は一機の戦闘機の前でクラハを降ろした。飛行場にはその機体だけが、なぜか照明を当てられて、燦然と輝いていた。


 戦闘機にはキルトケーキが乗っていた。


「雨ですね」


 クラハの電話から聞こえてくる音声は、確かにキルトケーキが機体からかけてくるものだった。


 緻里の電話に着信があった。


 希羊から、簡潔に、島国とのやりとりが完了したことが告げられた。


「それじゃあ。クラハ、元気で」


「ありがとう緻里。またいつか」


 雪国の夏の、重い雨。濃紺の空。


 風を起こす。雨雲が散っていく。


 滑走路を駆ける戦闘機は、あっという間に加速して浮き上がり、空に消えた。


***


 星が降ってくるのかと思うくらい綺麗だった。いくつもの光の筋が近づいてくる。


 それを見て緻里は、間に合ったことにホッとした。


 クラハはもう行った。とすればこの、雪国の空港を襲うミサイルは、「僕」に向けられたものだ。緻里は唇を舐めた。


 ミサイルの着弾。爆発音と空気の振動。


 ミサイルの軌道を計算する術式を展開する。


「友達じゃなくなるのは仕方ない。でも僕は傷ついたし、少しくらい憂さ晴らししてもいいと思うんだ」


 緻里は空高く飛び立ち、ミサイルの根元を目指して風を切った。


 雨雲を集め、緯度の高い雪国上空の冷気を下ろす。


 上空で滞留する氷の粒は、集まって大きな氷の塊を作る。


 そして雪が降った。


 雪国に接するとはいえ、今は夏で、不吉な感じがすると、大陸の祭石地方の人々は空を仰いだ。


 隕石が落ちたのかと思うくらい、大きな音がして、祭石地方の基地は目を覚ました。


 ミサイルを発射して満足していたところに、家はどの大きさもある氷の塊が、雪国のミサイルの代わりに着弾した。


 風は渦を巻き、上空の氷は摩擦し、電気を起こした。閃光が走ったかと思うと、大きな雷鳴とともに落雷し、ミサイルにも劣らないエネルギーで祭石地方の基地は焼けた。


 各所で火災が発生し、それが風に煽られ火災旋風となり、密集する基地の建物は焼け落ちる。


 それに加えて外はとても寒かった。


 火災から逃れるために外に避難した基地の軍人たちは、たちまち氷の塊に潰され、あるいは雷に打たれて絶命した。


 ふーっ、ふーぅと、緻里は肩で息をする。興奮している。冷気が脳を冷やし、思考を先鋭化させる。切り傷を負った時みたいに、痛みに気づかなかった。


 炎が赤くのぼり立ち、煙のにおいが漂ってきて、幾分か気が紛れた。


 大義も何もない。単なる憂さ晴らし。暴力を振るう快感に、緻里は打ち震える。


 雪は基地を覆う。


 緻里の理屈も理由も定かでない暴力をきっかけに、雪国と大陸が戦争状態に陥ることを、緻里は予期しなかったわけじゃない。


 他者に苦しみを押しつける結果になることも、考えなかったわけではなかった。


 ただそういう事柄から離れたところに、緻里の心があっただけだった。


 雪の降る基地、紅く燃える建物の間を、紅い傘が通った。


 紅い傘。浮き足だった緻里の心が、その紅傘から受ける情報は、一つのことに限られていた。


 まさか、こんなところに思純がいるなんてあり得るだろうか。思純だとしたら? ……何だというのだろう。


 確かめなきゃ、確かめなきゃという風に気持ちがはやる。


 地面に降りて、傘の内を覗く。


 雪に音が吸収されて、紅傘は緻里に気づかずに、紅く燃える建物と、紅を反射する雪の降る様を、ただぼんやりと眺めていた。

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