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制約の言語回路  作者: 府雨
雪国篇
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三十三章《希羊》

「制約の言語回路」三十三章《希羊》


 大陸の勢力が雪国のクラハの元領地を狙っていると、まことしやかにささやかれた。


 クラハは鼻息であしらったが、それでも一つの大きな論争を生んだ。


 飛んで送り届けたクラハの家は、一つの大きな城のような、広い空間と自然を備えた大邸宅だった。


 日を改めてクラハを訪ねると、複雑な応接手順に嫌気がさして、緻里はクラハに会う気を失ってしまった。


 薄雲の後ろでぼんやりしている太陽が、顔を見せないのと同じこと。


 しばらくギャハルでも、クラハを見かけることはなかった。


 キルトケーキは、クラハのことを聞いても微笑むだけ。彼女こそ雪国の大ボスなのかもしれないとすら思う。


 守秘義務とかそういう話ではないのだ。そこには感性がある。仕事に対してではなく、一人の人間としての美意識が働く、一種のコミュニケーションの方法だった。


 キルトケーキは、クラハが貴族の家柄であることを、これみよがしに言ったりしない。いかなる地位に着いていようと、客は客。カウンターの向こうの人間の美意識をけがすことはできない。


 緻里はクラハが分けてくれていた葉巻が恋しかった。


 島国の大使の希羊は、大陸と反目し合っている島国の立場から、外交上の有利を、雪国の外交部から引き出そうとしているらしかった。


 雪国の外交部局員が、大使館のゲートを通って、中に入る。車は大陸製。雪国が、地政学的に大陸におもねらない理由はなかった。そしてもちろん、島国に「配慮」するほど、雪国に余裕があるわけでもなかった。


 メルマールという四十近い男性の軍人と、マユという三十を少し超えた女性の外交官僚は、昨今の大陸の動向に危機感を覚えているようだった。


 主に武器や防空設備の融通を求めて、特にマユの方は方々に手を尽くし、奔走しているようだった。


 小さな雪国はまた、アメリカや欧州といった、他の国が戦争するのをにたにたと指を舐めながら見ている国に、援助を求めなければならなかった。


 希羊は、島国本国の外交部の意向を踏まえ、戦争に備えた。


 雪国は夏を迎えようとしていた。雪という障害がないこの時を、大陸は逸することはない。


 マユは、それから何度か希羊を訪ねてきた。希羊の一存では、武器の貸与はできない。希羊は逆に、在外邦人の脱出のためのルートの策定や、各種危機管理について、雪国の施策を要求する。


 それが大使館の仕事だった。


 それと並行して、希羊は緻里を連れて、大陸の領事館へと向かった。


 そういう時、緻里の大陸語の通訳は、非常に有用だった。


 希羊は大陸側に、有事の際に、邦人脱出のための時間や手段を設けることを、強く働きかけた。


 島国が軍事的な支援を雪国に行わないことを、暗黙裡に条件として用意しながら。


***


 希羊は柔和な人柄で、本国に三人の娘がいると、嬉しそうに緻里に話していた。


 五十を過ぎて、肉もついて、雪国のベーコンのおいしさを、よく話のネタにしていた。


 どこまでも情理に即していて、全く冷徹という感じはしない。理屈が通っている。それも、実に明快で、心理に働きかける。


 話を膨らませるのもうまかった。どの話にも「神経が通って」いて、真実でないことも、真実のように聞かせた。


 嘘をつくのは嫌いだが、自分が嘘をついていることに気づいていない。それが希羊だった。


 娘のうちの一人は大学中心にいるという。自身の輝かしい経歴は、娘たちを育てることを阻害しないかと、緻里は聞いた。


「代風先生の子供だということで、緻里くんは何か人生が変わったと思うかい?」


 緻里はそう聞かれて、笑った。


「私なんかよりよっぽど偉大な父じゃないか、そうだろう?」


 緻里は首を振った。


「風は、雨は、雪は、雷は、父親から学んだのかい? ほら、違うという顔をしている。緻里くんは大学中心を過小評価しているな。大学中心は、第一学府、西都大学に次ぐ三番手の大学だ。紛れもない力だよ。それに、私は府学ではないから、よく言われるような、独特の府学の雰囲気には憧れるところもあったりする。娘は府学には入れなかった。君は別に落ちこぼれではないよ」


***


 夏の空は澄み切った空気の向こうに星を輝かせていた。昔、母親に夏の星座を教えてもらったことを懐かしむ。


 星が降ってくるのかと思うくらい、空が近かった。


 シャツの袖をまくりあげて、風を切って飛ぶのだが、どれほど高く飛んでも、星には届かなかった。


 家の前に車が停まっていた。


 欧州車。漆のように深い黒の車体。ラグジュアリアスなデザイン。運転席ではクラハが寝ていた。


「待たせてしまったみたいだね」


「兄弟。しばらくぶりですまない」


「どうやら僕が何人か、わかったみたいだね」


「重ねて申し訳ない。世間知らずだと笑ってくれ」


「亡命を希望するのか?」


「ここは、私の町で、私の故郷で、人々は私の家族のようなものだ。その一方で私は、いかなる理由があっても死ぬわけにはいかない。この土地が私を定義するのと同じように、私の存在がこの土地を定義する。それが私の人々に対する責任なんだ。筋は通らない。それはわかっているんだ。道化の言うことと君の目が語る。苦しい。無理を承知で言う。君しか私を助けられない。恥も外聞もない。この通りだ」


「一応聞く。残された人が死ぬことを、クラハは看過するのか?」


「緻里。それは私の責任の及ぶところではない私は全体ではない。ただ、故郷と人々が私の対象であり、人々の中でまた、私も対象なんだ」


「よく、ここまで来れたね」


「ナンバーを控えられていない、ガレージの奥の車を裏門から出した」


「大使館はマークされている。希羊大使をここに呼ぶ。クラハ、中へ入りなよ」


***


 アルコールを出さない代わりに、緻里は温かいココアを作った。


 夏でも夜は寒かった。


 緻里は希羊に電話した。さぞやリンリンとなったことだろう。緻里は想像した。


「夜分遅くにすみません」


「何かあったかい?」


「うちに、今からいらっしゃるなんて、できませんよね」


「麻雀のお誘いかな?」


「電話ではとても話せません」


「なるほど。で、私は誰と話せばいいんだい?」


「僕の友人が島国に行きたいと」


「そういう人間関係は、あらかじめ報告しておいてもらいたかったな」


「すみません」


「一時間はかからない。待っていてくれ」


***


「ここは、島国だと思っていいのですか、希羊大使」


「ここは、緻里くんの家だ」


 希羊とクラハが対面する席で、緻里は簡単にメモを取った。「だが、たぶんクラハさんの友人は、クラハさんを守るだろう。島国まで安全に送り届ける。大陸の干渉を受けない場所で、島国以上の場所はない。急ぐのかな?」


「もうこれが最後のチャンスかもしれない」


「マユさんとメルマール少佐に、飛行機を回してもらおう。飛行機を『回す』? ……まあいい」


「緻里。あの車はやる。もうしばらくこの雪国とはお別れだから」


 クラハは車の鍵を緻里に渡した。


「堅牢な車みたいだな」


「丈夫なやつだ、きっと気に入る。すまない、本当だったらもっと、もっと大切なものを緻里には渡したかった。……私は、友情に理由なんてないと信じていた。でも、こういうことになってみると、私は最初から友人を利用していたのかもしれないと思う。助かるために友人を利用することに、私は何のためらいもない。理由は大きく根を張って伏在していた。すまない」


「僕たちが友人になるにはもっと早く会っている必要があった」


 クラハは悲壮を帯びた笑みを緻里に向けた。二人の間の友情は、利害と誠実の絡み合う形に変容した。つまりクラハは緻里の客になったのだ。

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