三十二章《貴族》
「制約の言語回路」三十二章《貴族》
クラハはこちらを向くと意味ありげに笑った。でもそれは一連の動きの中の一部分で、クラハの話し相手に何の違和感ももたらさなかった。
クラハは香水を撒いているのかと思うくらいの芳しい体香を醸していた。
プロのポーカー選手のように自信満々で、そのブラフを看破できる人はそういないだろうと思わせた。
クラハの話している相手は、好玉と呼ばれていた。クラハより少し年上で、メガネをかけていた。
もう一人、同じ席に座っている男性、緻里はその男性の座り方から、軍人の香りを嗅ぎ取った。劇酒と呼ばれていた。
そこの第一言語は大陸語だった。
音楽的な韻律を奏でる大陸語は、話し手の技量を要求する。
クラハの話す大陸語は、その中でも一級の流麗さだった。
「クラハ様だ」
ルシュタルトは言った。
「クラハ様って?」
「貴族クラハ。御家はここらの領主様だったの」
「だった?」
「うん。昔の大貴族。本当に国みたいな広さの領地を治めてたの。もうとっくに自由化して、でもクラハ様は私たちの領主様」
「へえ、そうなんだ」
緻里はルシュタルトにクラハとの友情を明らかにしなかった。
劇酒と呼ばれた男は、島国の言葉を話す緻里とルシュタルトを振り返って見た。
何回か視線を送られて、ルシュタルトは目をパチパチさせた。
「美人だからかな」
ルシュタルトはおどけた。
「それは事実なんじゃない?」
緻里は微笑んだ。
レストランのウェイターは、飲み物を持ってきた。軽いスパークリングワインで、それはあまりに軽やかでおいしかった。
「何の注文もしていないけど」
「コースだから」
「なるほど?」
クラハの席の劇酒は、ルシュタルトというよりは緻里に興味があるらしい。緻里も何となく引っかかるところがあった。
どこかで会ったことがある?
そう思うとぼんやりと、高校時代の顔が浮かんでくる。劇酒。そういう名前だったかもしれない。
「知り合い?」
「そうかもしれない」
「男の人の方?」
「そう。僕たちが島国の言葉を話しているのが気に入らないのかも」
「そっか」
もちろんルシュタルトは、島国と大陸が戦争していることを知っていた。
「緻里は、大陸語がわかるの?」
ルシュタルトは聞いた。前菜が出てきて、新しい食器が並べられた。
「まあね」
「クラハ様も、あんなに大陸語が流暢でいらっしゃるのね」
「確かに高貴だ。アクセントも美しいし」
「クラハ様が雪国の言葉を話すとね、本当に訛っててきっと笑うと思う。でもそっか、わざとなのね」
緻里は笑った。きっとルシュタルトの言ったことは雪国のこの地域の人の持ちネタなんだろう。
食事のコースはどんどん進む。
「雪国の女は健啖家なの。黒髪で小さな可愛い女の子ばっかり見ている緻里は、びっくりすると思うくらい食べるのよ」
「気にしないよ。それに島国の女子高生も、焼肉に行ったらめっちゃ食べる」
「ふふ、そうなの? 私に気にして言ってくれてるんじゃない?」
「本当だよ。何回か肉焼く役目を負ったことがあるから。嘘じゃない」
「女の子と焼肉?」
「まあね」
「そ、そういうこともあるよね、ふ、ふつうだよ。たしかにそう。あるある、あるよ」
「別に付き合ってたわけじゃないけど」
「お、幼馴染とか?」
「同級生だよ。ルシュタルトさんだって」
「わ、わたしだって?」
「一緒にご飯食べてる」
「それはそう」
二人は笑った。
食べている途中の皿も、問答無用で交換され、次々に新しい料理が運ばれる。
「どうかな、お口に合うかい?」
ダジェクは後ろの席から緻里に声をかけた。
「とてもおいしいです」
「それならよかった。雪国は島国と違って野菜の数も多くない。ゴテゴテしていると思うが、それも味だ」
「ここに来て、雪国料理、本格的なものを食べたことがなかったから、とても嬉しい経験です」
「ありがとう。そう言ってもらえると私も嬉しい」
天井は高く、シンプルなシャンデリアがいくつか吊るされていた。
緻里は辺りに視線を巡らせた。
耳のいい緻里は、なんとなく、クラハのテーブルで交わされている会話の雲行きが怪しくなっていることを聞き取る。
早口で、それも外国語で行われている会話を聞き留める者は、緻里の他にいなかった。
ほろほろにほぐれる牛のテール煮込み。おいしそうに食べるルシュタルト。
「ルシュタルトさん」
「ルシュールでいいよ」
「ルシュール、今度お礼をさせてもらえないかな」
「お礼?」
「こういう場にご招待いただけたお礼」
「それなら、私の学校に来てくれない?」
「学校?」
「ちょっとしたプライベート・スクール」
「何年生?」
「私が担当しているのは、高校二年生」
「ルシュールは物理を教えている」
「ええ」
「その高校で何をすればいいのかな」
「島国のことを教えてほしいの。雪国は狭い国だから、外のことを知る機会に」
「わかった。約束するよ」
デザートが済み、紅茶にミルクや角砂糖を入れて楽しみながら、夜は深まっていった。
お会計はもうすでに済んだと言われて、緻里はご厚意に預かるのを厚かましいとも思わなかった。
「兄弟、来ていたのか」
「クラハ、またギャハルで」
「ああ、そこなら騒がしくないだろう」
「気をつけろよ」
「心配するな。大丈夫だ」
お手洗いで、顔を見合わすことなく言葉を交わす。
エントランスを出ると、ルシュタルトが待っていた。ちょうど指で散らした火花がタバコに火をつける。
「一本もらってもいい?」
「これ、不味いと思うわ。あんな美味しいタバコを吸っているんだもの」
「試してみなければわからない」
「どうぞ」
指で箱から取り出して、手慣れた手つきで火をつける。
「不味いとは思わない」
「でも美味しくもない」
「いや、それは……」
「緻里。無理しなくていいの。私たちの仲じゃない」
ルシュタルトはひとしきり笑った。
美人だった。話していて楽しいし、タバコ一つで笑い合えるのだから相性だって悪くない。
春の底冷え。ダジェクの車のライトがつく。ダジェクは緻里の元へ来て、改めて挨拶した。車の定員の関係で、ルシュタルトはまた緻里の車に乗ることになった。
ダジェクが車を出した後も、しばらく二人はタバコを吸っていた。
クラハの乗っている車が、殊の外オンボロで、二人はくすくすと笑い合った。
視界の端にクラハを認めた。
クラハは酔っているようで、足取りが少し不安定だった。小太りの雄鶏。そんなイメージだった。
「おっと」
とクラハが言ってよろけるのと銃声が鳴るタイミングは、ほとんど一緒だった。
緻里が起こした大風で、銃を発砲した劇酒は、完全に緻里のことを第二の同学と認識し、緻里も劇酒が「敵」であることを認めた。風に引っ張られて劇酒はよろける。
バタンと好玉が車に入ると、緻里の車とクラハの車のタイヤを、劇酒は撃ち抜いて撤退した。
はあ、またか。
耳を塞いでうずくまっているルシュタルトの肩を叩いて、「大丈夫、もう行ったよ」と声をかけた。
「車、あなたの車、クラハ様は?」
「兄弟。助かったよ。劇酒のことを知っているのか?」
「高校の同期だよ。あんまりよく覚えていない。銃とかいまどきどうなんだ?」
「激しく同意。しかし、足がなくなってしまった」
「寒いのが嫌でなければ」
クラハを風で浮かせると、クラハは驚いてこちらを向いた。
「ルシュールもよければ。快適さはないけど」
「飛ぶの? それはどういう物理現象?」
「さあ、あんまりよくわかっていないんだ」




