三十一章《雷門》
「制約の言語回路」三十一章《雷門》
雄弁を誇るものは、一つ覚えておかなくてはならない。
誰かその声を聞くものがなければ、その雄弁は単なる独り言で、独り言ほどその人の精神に負荷をかけるものはないということを、覚えておく必要がある。
あなたのために人はいない。人のためにあなたがいるのだと思う時、あなたは多くのことを理解するだろう。
それは一種の倫理であり、非対称な振る舞いだ。あなたが身を処する時にそういうことを考えはしないだろうか。
あるいは、そういう倫理コードを、うるさく感じるかもしれない。
誰も最終的には完全になれないのなら、どう生きたって、不完全だって、生半可だっていいじゃないかと、悪態をつくかもしれない。
しかし規範なく生きることは難しい。
そしておそらく、不完全でいることより完全になることの方が、よっぽど簡単だと私は思う。人生は不完全でいるには短すぎる。
そうは思わないかな?
***
第一都市に住んでいたのは、もう四十年も前になる。(ダジェクは言った)
当時の島国は魅力的な国だった。
もちろん今がそうでないとは言わない。
でもあの時は、子供は父を尊敬し、家族はその形を留め、友人とは切磋琢磨していた。
もちろん病はあった。
私は若い医学生として第一都市で学び、主に島国にはびこっていた、子供の精神的な病に研究課題として取り組んでいた。
学校という空間が、その時はもう風前の灯で、子供たちの生活空間としてはあまりに劣悪と切り捨てられようとしていた。
でも、その反動として打ち立てられつつあった代替案に、宗教的なにおいを感じたのは、私一人ではなかった。
子供たちは家族へと回帰し、父は子供の黒板だった。
私が面談した多くの子どもは、生活により消耗する父を心から心配していた。生活が消耗を要するものだと、自分の未来を映し出して、萎縮していた。
だが、そのことに私は大いなる前途を感じずにはいられなかった。
暗雲立ち込める子供の成長の漬物石が、いつか取り外される気がしたのだ。
「愛って何なのか、実はよくわからないんです」
そういう子供の方が、愛を理解する確率は高い。身に染みて「何が愛じゃないか」を心に刻み込んでいるから、愛から受ける自由と幸福を、愛から搾り出す。
「愛が何なのか、わからない」子供の方が、とても大人びて、優しさが滲み出ている印象があった。
困難な時間を通り過ぎて、行きたいところに行く。
***
「愛がわからんという顔をしている」
ダジェクは神妙に緻里に告げた。
「正直さっぱり」
「よく見たタイプだ。典型的な島国の青年」
緻里はにっこりと笑った。
「そうかもしれません」
「私は恐ろしかったよ。柔らかくて美味しそうな肉をつけた羊たちが、仙人のように悟っているのを見ると、私が今まで見てきた子供は、何だったのかと」
「そういう子供たちは、その後どうなったんですか?」
「わからないかね?」
緻里は、首を振った。
「偉大にはならない。出世はしない。でもとことん幸せになるさ。君もだよ」
緻里はぺこりと頭を下げた。ダジェクは緑茶で唇を湿らせた。
***
ああ、浅草寺の雷門に、宵風が隅田川の桜を運ぶ時、そこに立っていることがどれだけの感動を私にもたらしたか。
第一都市の夜景が、私を没入せしめた近代的病の根源を、覗かせてくれた気がした。
夜景。街の賑やかさを、子供は無視することはできない。目は光を受け、暗闇のその濃密さを解体する。
「怖くないさ」
「怖くない」
「当たり前だもん」
「当たり前だ」
鍵をかけるまで後ろに人がいないか気にする子供が、やがて心を麻痺させて、何に対しても関心を示さなくなる。
私が美しいと感じた風景は、夜を生きる子供たちの監獄であり、だからこそ家は、その子供にとって大切な意味を持っていた。
父は愛を伝える術がなかった。
子供たちは父という存在が一体何なのか、少しもわかっていなかった。
父は子供に物を与えたり、どこかに連れて行ったりした。
物も場所も、たとえそれが父の好意からくるものだったとしても、愛の印にはならなかった。
「どうしてお父さんは僕に物を買ってくれるのか」
子供はわかっていなかった。でも、父は子供を愛していた。島国の父は、子供に愛を伝えない。愛していないからではない。宗教のない島国では、「愛と平等」は生来のものではないのだ。
「どうしてお父さんは僕に物を買ってくれるんだろう」という疑問に答えるために、子供たちは冒険する。
言葉を学ぶことで概念を拡張するように、生活し、いくつかの儀礼を通過することで、子供は大人になり「愛」を学ぶ。
医師になってわかる。精神は言葉であり、病の治癒は、成長し、概念を拡張することだ。
手元の言葉が不如意なのに、生活を打ち立てることはできない。
雨の日も雪の日も夜の雷門の前を通った。
私の島国の言葉は、私の母語を侵食した。閉ざされた雪国の風景は、朱色がよく映える雷門に上書きされた。
こちらから向こうへ、表から裏へ。幼さから成熟へ、孤独から友愛へ。
全ては知ることから始まる。
***
ダジェクは車で緻里を先導した。
着いたのは雪国の郷土料理のレストラン。
ダジェク、ルシュタルト、ハガネの他にも、ダジェクの親族たちが何人か集まって、そのレストランへ向かった。
緻里の車にはルシュタルトが乗った。
雪国の言葉と島国の言葉を交互に使いながら、簡単な事柄をざっくばらんに話す。
「緻里、タバコ吸うのね」
車の灰皿に新品のタバコの箱が入れてあった。
「なんとなく置いとくと安心するってだけで、滅多に吸うことはないんだ」
「私はたまに吸う」
「そういう人のためのタバコだよ。どうぞ」
「ありがとう」
ルシュタルトは手慣れた手つきでタバコを一本箱から取り出すと、指でシュッと音を立ててタバコに火をつけた。
それは異能だった。
ルシュタルトは窓を開けて、まだ肌寒い雪国の空気を中に入れ、タバコの煙を外にたなびかせた。
「おいしい。いい趣味してるわね」
ルシュタルトは言った。
ルシュタルトの薄い唇がタバコをくわえるのは、かなり雰囲気があって惹かれた。
「友達がくれたんだ」
「いい友達ね。これ、とても高級よ」
「高級な友達だから」
ルシュタルトはひとしきり笑った。
「ごめんね。緻里は吸わないのに」
「タバコの香りは嫌いじゃない」
「なにそれ。どんなキメぜりふよ」
ルシュタルトはくすくすと笑った。
「あなたがお客さんになってくれて、私は嬉しいわ」
「こちらも、おもてなしいただいて嬉しい」
車は山の麓まで走り続けて、濃紺と灰が混ざったような独特の色合いを持つ山肌が間近に見えてきた。
レストランへと繋がる道は整備されていて、手づくりと思われる門や飾られた花々が緻里の興味を引いた。
都会的ではなく、さりとて安っぽくもなかった。
それは素朴というものでもなく、質感が良くて遊び心があった。
門をくぐって道路を少しばかり行くと、開けた駐車場と、背の低いレンガ調の建物があった。
エントランスに人はいなかったが、もしそこにドアボーイがいたら、ホテルだと勘違いしてしまうかもしれない。
「ルシュタルトさん、ここは?」
「ユシエというレストラン。私たち家族の御用達。御用達なんて言うほど、私たちは高級じゃないけどね」
車を停め、ダジェクの家族たちは先にレストランに入った。
緻里はルシュタルトに案内されてチラチラと外観を見ながら、エントランスをくぐった。自然な暖かさに包まれる。
コツコツと緻里の革靴のかかとが鳴る。そんなに強く歩いているわけではないのに響く。自分の靴音にカクテルパーティ効果がかかっているのかもしれない。
ダジェクは指で人数を告げる。ウェイターは二つのテーブルを指定した。
レストランは人でいっぱいだった。
大陸語が聞こえる。何人かの大陸人。その相手をしているのはクラハだった。




