三十章《巫女》
『制約の言語回路』三十章《巫女》
すぐ近くというほどではないけれど、遠くとはいえない距離に、山が連なっていた。
白雪が山肌を削り、陰影を重ね、美しい景色を作り上げる。
都市とその近郊を走る列車の窓からは、そびえる山々が天空へ挑戦しているのかとすら思われた。
無機質なデザインの島国の列車とは違い、車両は雪国の伝統をあしらい、見知らぬ人同士が声を交わすことも珍しくなかった。電気系統がしばしば不具合を起こすのも、それはそれで趣がある。
緻里は電車に乗ると、必ず声をかけられた。
よく大陸人だと間違えられる。緻里の未熟な雪国の言語は、島国の出身だということをたどたどしく説明するのだが、国際語でもある大陸語が通じるとわかると、みな大陸語を披露してくれる。
「なんだ、やっぱり大陸の人なのね」
合点がいったところを蒸し返すのは難しく、島国の人らしいはにかみで、緻里は全てをうやむやにする。
緻里は近郊に家を貸与されていた。
広い家で、緻里には広すぎるといったところだが、ガレージに車(島国製)をつけ、庭の雪かきをし、部屋を暖炉で温め、ゆっくりと時間をかけて雪国の言語を学ぶと、それなりにゆとりができて、料理なんかもしてしまう。
飛べばいいのだが電車を使う。
朝、同じ電車に乗り、終点の「カトル」駅で降りる女性と、顔を合わすたびに笑みを交わす。
背が高く、金髪で、灰色の目をしている。「おはよう」と言われる時もある。そういう時は緻里も「おはよう」と返す。お互いそれで満足するのか、それとも電車の時間が貴重な内省の時間なのかはわからないが、展開が変わることはない。
彼女は音楽を聴いている。緻里は読書をする。北国の分厚いコートは、春のこの季節でもまだ手放せない。
人の多くない電車は新鮮だったが、それも時間が経つにつれ自然に感じるようになった。
満員電車に揺られて高校まで行ったことを、通学のために電車を使う、雪国の高校生を見るたびに思い出す。
雪国の高校生は、電車の中でも熱心に勉強していた。大陸語もカリキュラムに入っているのか、時たま単語が聞こえてくる。
希羊大使と話す時くらいしか、緻里は島国の言葉を話さない。
島国の知名度も、相対的な地位も低いこの雪国にあって、全てが「白」に染められてしまうのではないかと警戒感を持つこともなく、ナショナリズムが矮小化する感覚に悦に入ってすらいた。
街には土が水を含み気化させて匂いを運ぶ。遅い春に合わせて、雪国は多くの観光客を呼び寄せる。そこここでものづくりの音がする。針葉樹の森から木材が運ばれる。
その多くが島国へと運ばれる。島国の高校で出てくる雪国の記述は、ほとんどそれに限られる。
鳥が羽ばたく時、初めて、飛んでもいいなと緻里は思った。
***
早起きして車を出す。雪が溶け、不自由なく車が動くようになる。
横幅の広い道路をひたすらにカトルまで走らせる。
希羊に「今日は車で来たのか」と問われると、緻里は曖昧にうなずいた。
「寒空の下を飛ぶのでは、凍えてしまいます」
「違いないね」
車は、とても良い座り心地で、誰かが隣にいればもっと楽しいだろうにとまで思わせた。
もうクラシックと言える、チャーリー・プースとセレーナ・ゴメスが歌う「We Don’t Talk Anymore」が繰り返し再生されていた。
思純のことを思い出す。その歌がかかる時は、嬢憂でも、言雅でもなく、思純のことを。
限りなく思純から遠い場所で、手がかりとなる記憶も薄らいで、それでも記憶を記憶することで思い出す思純は、愛おしく、そこには強い理由があるように思えた。好きになる理由が。
そこらで仲良くなった人と恋人になるのではない。指輪をなぞると、硬い手応えがする。全てが不安定で、不確かな心象風景に反して、写真のように鮮明で、はっきりした感情が緻里の心の一部を占めていた。
そういえば思純と知り合ってもう七年にもなる。もういい歳だとか、手頃な人にすればいいとか、そんなことは思わない。
でもよくよく考えれば、思純もそこらで仲良くなった人。刷り込みなのかもしれない。
自分の話す言葉の中に、思純の欠片がいつも散りばめてある。
言葉を託つ者は常に巫女であり、それに縛られ、それに従い、英雄は物語を周遊する。
言葉は常に先を行く。予言され、禁止されて、未来は釘づけにされる。そんなわかり切った未来だというのに、歩みは不確かでしかない。
緻里は、思純との思い出が深いからでも、濃いからでも、特別だからでもなく、単に思純が好きだった。
比較の可能性は排除され、現在形と原形で、緻里の体中を、好意が巡っていた。
***
車で食材を買う。食料品店でバッタリ電車の女性と会った。
「こんにちは」
女性は言った。
「こんにちは」
緻里は返した。
「最近、電車で見かけないから、どうしたのかと思っていました」
女性の言葉遣いは丁寧で、でも他人行儀なところがなく、質素でかつ流麗だった。
「雪が溶けたので、車で」
「そうですか。これからいい季節ですからね。でも、たまには電車を乗られるのも悪くないと思いますよ。お名前は?」
「緻里」
「ちさと。『島国の人』?」
「そう」
「昔、島国の言葉を学んだことがあります」
女性は島国の言葉でそう言った。
「なんとおっしゃるんですか?」
「そんな難しい敬語を使わないで」
女性は顔を綻ばせた。
「名前は?」
「私はルシュタルト。教師をしています。緻里、あなたは何をしているの?」
「役人を」
「そう。もしよければ、私とお話をしてくれませんか」
緻里はゆっくりうなずいた。
車でほど近い住宅地を分け入り、広い敷地に何棟が建つうちの一つ。家族が固まって住む雪国ならではの、まるで四合院のような家に、緻里はお邪魔した。
犬が二頭で迎えてくれて、ルシュタルトが荷物を解いて冷蔵庫へ仕舞っていると、近くで子猫が三匹おいかけっこをしていた。
「ルシュール、おかえりー。お客さん?」
「ハガネ、ただいま。そう、前話したことあったよね。やっぱり島国の人だったよ」
「あぁ、電車の。『こんにちは、俺、ハガネといいます。ルシュタルトの従兄弟です。高校生です』」
「島国の言葉でありがとう。緻里といいます」
「雪国の言葉は下手だね」
「ハガネ、そんなこと言わないの」
「いいんです。事実ですから」
「待ってて、ダジェクおじさんを連れてくる。西邸に遊びに来ていたから。おじさん喜ぶと思うよ。昔島国によく行ってたらしいし、島国の言葉、堪能だから」
ドタドタとハガネは中庭に出る。中庭の端にはまだ雪が溶け残っていた。
「ダジェクは私の父です。父の影響で島国に興味を持ちました。緻里をお呼びしたのも、父が喜ぶかと思って。お座りください。ふふ、緑茶をお出ししますよ」
湯が沸き、茶葉の香りが漂ってくる。
高い位置にある窓からは、光がさしてくる。
ルシュタルトの家のリビングには、大きな書架が二つあり、壁に埋め込まれていた。島国の文献(それは文献と呼ぶにふさわしいいかめしさだった)が並んでいて、すぐにそれとわかる。
物理の専門書と領域を分けていて、ルシュタルトが物理の教師だということがわかる。
「お菓子は、残念ながらドーナツなの」
「抹茶味の」
「そう」
ルシュタルトはくすくすと笑った。
歳は近いようでいて、正確な年齢はわからなかった。雪国の人々は老けて見えると希羊は言っていたが、だからといって女性の年齢を不当に高く見積もるのは、あまりよろしくないだろう。
ルシュタルトの顔をちらちらと見る。
「私の顔に何かついてる?」
万国共通のせりふ回し。
「いえ、綺麗な金髪だな、と」
「ありがとう」
「『娘を口説きに来たのかい?』」
白髪、シワの寄った顔、杖。ルシュタルトの父ダジェクは、そう言うと、顔の中心に集中した表情を緩め、「冗談だよ」と微笑んだ。
「ダジェクだ。懐かしい島国の言葉の響き。来てくれてありがとう」
緻里は席を立って挨拶した。深々とお辞儀をするのは、ダジェクの前では、実に自然なことだった。




