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三章《傘》

「制約の言語回路」三章《傘》


「あなたには好きな人がいないのね」


 思純はそう耳元で囁いた。


 緻里は答えなかった。


 そんなに大きくないとはいえ、女性の柔らかい部分が触れる経験を、緻里はしてこなかった。緊張が解けたと思ったら、別種の緊張が緻里の背を走る。女に背後を取られるなとは、よく言ったものだ。後ろで何やら不穏なことを考えている音がする。この距離だとどんな術をかけられても即死する。


 油断しているのではなく信頼しているのだと言えるのは、本気で戦ったから。


 だから後ろ首に唇の感触がするのも、信頼の証だ。


 鼻が髪に触れて、思純は息を吸う。


「汗臭くない?」


 と極めて切実に聞きたかったが、緻里は深い思索ののちに聞くのを諦めた。何もかもがやぶへびになってしまうことを恐れたのだ。


「ねえ」


「うん」


「ねえ、なんで何も聞かないの?」


「聞く?」


「理由とか」


「理由?」


「バカにしてる?」


「とんでもない」


 緻里の腹部に回っていた思純の指が、くっと曲がり、爪が食い込む。


 雲を抜け視界が開ける。遠くに海があり、他方山脈がそびえてる。


 苔むしたような凹凸が、眼下に広がる。


 ビルが屹立し、橋がかかり、大陸のにおいがした。すんと嗅ぐと、肺腑にしみる文明の香り。島国の雨の日の草木のにおいとは違う。


「一人でも生きていくんだよね」


「当たり前」


「もし戦争が起きて、僕が君に殺されるとしても」


「私があなたを好きになった事実は永遠不朽なのよ」


 声ははっきりとして自信に満ちていたのに、思純の体は強張り、指は緻里の腹部を掴み、かすかに震えていた。その震えの理由を、もしかしたら、緻里は勘違いしていたのかもしれない。


「私言ったからね」


「うん」


「返事を聞いてもいい?」


「なんで僕を好きになったの?」


「先に返事をして」


「正直、思純さんのことはよく知らない」


「御託はいい。結果だけ教えて。あなたに好きな人がいないことなら、先刻承知なのよ」


 緻里は思純の手に手を重ねた。思純の指がほどけ、緻里の指に絡んだ。


「僕は孤独だと思っていた。でも今日からは違うんだ」


「つまり?」


「僕も君のことが好きだ」


 言葉を凝縮し、思純は銀のリングを作った。


「指を絡めるといいことがある」

「どんなこと?」


「あなたの指の外周を、正確に測ることができる」


「素晴らしいね」


 思純は指輪に刻まれてた言葉をなぞり、満足気に緻里の中指にはめた。


「これは愛の言葉。忘れないでね」


 かちりと指輪をはめた指同士が重なった。


 夕焼けが彼方に見えた。瞬間、黄金色の光が世界を覆った。沈む太陽の射程は地球の球面を舐める。


 霧が舞う地上近くは光が散乱し、そろそろ帷が降りる頃とて、人々は帰り支度をする。


 思純は満足そうに片耳を緻里の背中につけ、心音を聞き取った。


 安らいだ心地がする。


 眠っている。強張りが解け、優しさの結晶が、上空では冷たい雪になっていた。寝息が聞こえるほど静寂な空を、夕日の沈む瞬間まで。緻里は恋人とともにいた。


 夜の街中、龍は体を霧に紛らわせ、静かにビルのヘリポートに二人を降ろした。


 上空の雪は地上では霧雨になっていた。


 思純は空間に紅い点を置き、傘を具現化させた。


 二人はその傘の中で手を繋ぎ、寮まで歩いた。


 それは美しい傘だった。車のヘッドライトが傘を照らすと、まるで消防車の警告灯みたいに遠くまで紅い色を敷いた。


 あれだけ好戦的だった思純も、歩く大人がなにやら怖いのか、緻里を握る手がぎゅっとなる。


 大陸の女だった。


 途中、小さな商店で水を買った。


「彼氏かい?」


 思純は笑った。高校で彼氏を作るなんて、大陸の学生はあまりしない。そんなことより受験に忙しい。


 恋人を作ることは特別なことだ。それは、第二中学で主席でいることの何倍も、何倍も難しい。それが異なる国の青年たちの間でなら、尚更のこと。


「第二かい?」


 店主は聞いた。


 思純は決済を済ませると、それには答えずに店を出た。


「ここは北城市第四があるから。私たちは珍しい」


「第四?」


「ええ、序列一位、大陸全土に響き渡る名声。第二では第四に及びもつかない。あなたも、気をつけた方がいいわ」


「何を気をつけるべきなんだろ?」


「それは、推して知るべしね。ほら、後ろ」


 思純は傘をたたみ、塀に立てかけた。


 ゆらりと空間が歪んでいる。何かがいることはわかるが、何がいるのかはわからない。


 緻里は空間を解析する。また同時に上空に空気の渦を作る。


「女を置いていきな」


 歪んだ空間からねじれた声が聞こえた。


「治安悪いな」


「夜だから。でも、安心する。あなたと一緒だから」


 気がつく頃には雨が全てを洗い流していた。解消された歪みに気づかず、見えてしまえばなんということはない、たかりの不良は、じりじりと近づいてくる。


「雪……」


 それも重たい雪。


「こんな雪初めて」


 黒曜石のように鋭利な氷のつぶてが、その不良を切り刻む。頬がパックリと裂け、血がにじむ。不良は不運にも自分のところだけに降ってくる雹に、慌てふためき、自暴自棄になってこちらに迫ってくる。


「真っ暗ね」


 と思純が言うと、周囲の街灯は途端に接続不良になる。そういう風に科学に介入するのは思純ら分析術師の得意とするところだった。思純は傘を持つ。


 緻里は思純の手を取り、月明かりが雪を白く浮かび上がらせる光を頼りに、駆け出した。


 車が道を通る。車のヘッドライトが、灯籠のように道路という川に流されて、まるで生と死の境界をゆらゆらと描いているようだった。


「この傘あげる」


 思純は言った。


「私の傘丈夫だから。餞別。島国は雨ばかりって言うもんね」


 曖昧な返事が最後のやり取りだった。


 翌日以降、緻里は学校で思純を見かけることはなかった。


 傘を大事に荷物に仕舞い、指輪を片時も外さないようにし、思い出とともに緻里は雨降る国へと帰国した。

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