二十九章《雪国》
「制約の言語回路」二十九章《雪国》
春に芽吹く緑と、まだそこここに残る雪の白。
どんよりと暗い空の後ろに太陽の気配。
積まれるレンガの家並みが、突き出した煙突から出てくる煙が、部屋の中の暖かさを想像させる。
すれ違う人はみな、分厚いコートに包まれて、でも目線だけ寄越してくる感じが、なんとも純文学の世界みたいだった。
雪はちらちらと儚げには降らない。空にある水蒸気を全て雪に変え、下に持ってくる。春であっても。
重たい扉を開けて、カフェに入ると、カランと音がして緻里の入店を告げる。
カフェ「ギャハル」に入ると、まずコーヒーの香りに包まれる。
「お酒を飲みたいなら別のところへどうぞ」
店員のキルトケーキは緻里が最初に入店した時そう言った。
「いらっしゃーぁい」
武官として赴任した「雪国」。島国の出先機関、小さな大使館のそばにあるカフェに入ると、暖気が逃げて白い息になっていた。
雪にまみれたコートをはたき、雪を落とす。
クラハが先に来ていた。
クラハと緻里が話すようになったのは、クラハが緻里のことを大陸人だと勘違いして、大陸語で話しかけたことに端を発する。それからずっと、クラハとは大陸語で話している。
二十五歳だと言うのにもう丸っと太っていて、それでもこざっぱり、綺麗に見えるのは、身だしなみがいいから。
指が長く、いつも何か書いている。
手帳と鉛筆は、クラハにとって欠かせないアイテム。緻里といる時、メモを大陸語では取らない。雪国の言葉で丁寧に、でも素早く。紙幅を余すことはない。
吸っている葉巻は上等なもので、物資の手薄な雪国では、一般人はまず手に入れられない。緻里も御相伴に預かる。
クラハはどうやら雪国の大学を卒業したらしく、専門は大陸文学で、記者や通訳のような仕事をしているらしい。「らしい」というのは、クラハのその言に、彼の風貌や雰囲気が反しているためだった。
葉巻の甘い香りはキツく、それで人を選別していると言っても差別には当たらないと思うくらいだった。
緻里がクラハと気が合うのは、単に共通の言語を話しているからだけではない。
話していて楽なのは、相手の弱さに配慮する必要がないからだった。
クラハと大陸語で話してわかったのは、彼が島国という国の位置を、正確には把握していないことだった。
苦々しいなと思いつつ、極東の島国の存在感なんて、世界的にはとるに足らないもので、だから、今、島国が大陸と戦争している事実の理解が曖昧なのも当たり前のことだった。
クラハは緻里のことを「大陸人ではない」と思っている。でも一体「何人」なのかきちんと把握していなかった。
それは、武官としての身分をあまりおおやけにしたくない緻里には、都合がいい。
マフラーをほどき、ネクタイを緩め、葉巻に火をつけて、それからしっかりと握手する。それが緻里がクラハといる時の儀式のようなものだった。
同い年。クラハは、今日では島国にいない、古典的な教養を身につけた人らしかった。話していると、哲学や文学の滋味がにじむのがわかる。
それはエリートとは異なる。近代の枠組みでは捉えられない人間味と、真正面から人に当たる誠実さを、クラハは備えていた。
緻里が何者かを聞かないのは、クラハが貴い(あるいは考えにくいが罪深い)身分だからだろう。
だが、現象学の教えに従えば、クラハからあふれる好ましい雰囲気は、そのままクラハの善性を証明している。
緻里はそう思い、わずかな懐疑をさしはさむことで、一種の保険を掛けはするものの、結局印象の結果を覆す懐疑の手がかりはない。
見えない裏側を見ようとしない、現象学の哲学的手続きは、自己の理性と他者の不可知性への全幅の信頼により成り立っている。
だから、最終的には実際のクラハの出自は、貴族だろうと罪人だろうと問題ではない。(あるいは両方なのかもしれない)
将棋のような情報がオープンになったゲームではなく、麻雀のような運の要素が絡むゲームを、緻里はクラハとやっているようなものだった。
それはいかにも人間らしく、楽しい時間だった。
「コーヒーを」
「はいよーゥ」
キルトケーキは不思議な声で返事をした。
「昔の小説ではよく、『兄弟』なんて話しかけたものじゃないか。私は、ああいうのが好きだった。気味が悪くて緻里は言わないだろう、なぁ? 兄弟」
「年月を感じるね。どこか欧米的、というよりアメリカ的で。広い家と高い天井、自信満々で、やたら肩を叩く」
「緻里、君は例示の羅列の仕方をもっと几帳面にするべきだ」
「兄弟、そんなことできたら僕は今頃小説家になっている」
「確かに、緻里は小説家には向かないだろう。だが、詩的ではある」
「初めて言われたな」
「大陸ではよく詩を学ぶだろう」
「大陸ではね。僕は詩はやらなかった。だいたい、恋愛詩というジャンルが好きになれなかった。友情と惜別もいまいちピンとこない。学生はみんなそうだったよ」
葉巻の先端が赤くなる。コーヒーが置かれて、緻里はそれに口をつける。
「でも、今ならわかるだろう?」
「クラハにはわかるのかな?」
「昔は、なんで単純な世の中なんだろうと思っていた。父は雲上人で、母は孤独で、子供は読書だけしてればいい。私の感想は、変わらない。単純だ。今も昔も。小説を読んでいると、とてもトリッキーで気の利いたストーリーにぶち当たる時がある。なるほど、こういう世界もあるのかと。カフカとかドストエフスキーとかね。ところで、緻里は、小説の人物がどういう風に話すかわかるか。『いや、別にいいんだ、答えなくても。大したことじゃない』」
「『クラハ、そりゃないぜ』。カフカ、ドストエフスキー、名前くらいは僕も知っている。でも彼らは一体、いつ生きていた人だ?」
「巧みな詰将棋のように、言語という無限の広がりの中で、緩むことなく文学を結晶させる。時代は問わないのさ。いつの時代も天才はいる」
緻里は笑った。
「どうした?」
クラハは笑いに反応した。
天才。久々に聞くと、改めてクラハの懐の深さがわかる。
いわゆるIQが高いことを、クラハは天才と表現しないだろう。極めて美的、かつ高度に卓越した知性。それのみならず、歴史に残る「鍵痕跡」が天才の十分条件だった。
「歴史に名を刻むには、何年も何年も時間がかかる」
「だから私は葉巻を吸う。時間が経つのを待っている」
小さな窓は二重になっている。外の音は全く聞こえない。聞こえるのは食器が重なる音。
「僕は軽薄だったよ」
緻里の言葉にかぶせるようにクラハは手で合図し、それを否定した。
「そんなこと言うかい? 軽薄? それは実践的ということに他ならない。私はそう思うよ」
「でもやはり深みがない」
「こだわりと見栄に飾られるよりよっぽどいい。『奴ら』はことを複雑にしているだけだ」
「ならいいんだ。僕も安心して眠れる」
カランと入店の音がする。外の冷気が入ってくる。
葉巻の香りが舞い上がる。そして扉は閉められる。
キルトケーキはサンドウィッチを作って緻里とクラハに出す。クラハはからんと小銭を置いて、緻里もそれに倣う。
「もう吸わないだろ?」
「あぁ、僕の昼休みはもうそろそろ終わりだ」
「また会おう」
「いつもありがとう」
***
「おかえり、緻里くん」
希羊は、執務室をノックして入ってきた緻里に笑顔を向けた。
小国がゆえに人員も少なく、この雪国で過ごすことになる一年の価値は、忖度なしで小さくなる気がした。
希羊大使はそれでも忙しそうに執務をこなしていた。
音が雪に吸収されて静謐が訪れる。
雪国の日々が始まる。




