二十五章《子爵》
「制約の言語回路」二十五章《子爵》
「うううおおーぃ」
と言った子爵は、かなりバカっぽく、緻里は緊張が緩んでしまった。
ボンボンボンボン、子爵の周囲で爆発する。
それを合図にドロドロに溶けたマグマのような流体が、雨から生成されて、それが酸性雨のように藤宮島に落ちる。ジウジウと焼ける音、蒸発する水分の音が聞こえてくる気がした。
「雨か、雨はいいよなぁ? な?」
それは術式というより、異能に近い気がした。
うまく解析できない。緻密に練られているか、天性のものか。
「雷鳴、お前頭いいだろ」
「概ね」
「俺のことバカだと思うだろ?」
「どうだろう」
「わかるんだよなぁ。ぶってるやつ。いい子ぶってるやつっていうのはさあ、どっちに転んでも『勉強になりました』って言うんだろ? 負けたら死ぬんだぜ、この勝負、勉強か?」
緻里は周囲の雨が温度を上げていることに気づく。瞬間、風で雨を晴らす。シウシウと雨が沸騰し気化する。
「それでいて直感派。なるほどぉ」
緻里の雨のフィールドを利用して、子爵は周囲の温度を上げる。緻里を雲の上の乾いた場所に誘導する。
足元では稲妻がピシピシと走っている。
「雷鳴。お前が、わけわからんフェイクで俺たちに仕掛けたのか?」
「何を言っているかわからない」
「俺の今作戦の役割は……、お前らの航空機の足止めだった。鉄の塊を溶かしてやるとね。いい。雷鳴、お前、障るんだよな。うざったいっつうか。殺す」
足元の雲がみるみる蒸発し、膨らみ、柱を何本も作った。
緻里は子爵の術式の解析を半ば放棄して、そこに雷を生み出す術式を絡ませた。雷は驚くほど速いスピードで成長し、柱から柱へと電位差を頼りに運動し出した。
緻里も子爵も、「冗談でした」と終わるわけにはいかず、混沌の術式展開の中、柱が天井を作ると、二人は笑った。
「火傷すっぞ」
「感電死すると思うけど」
ピシャンピシャンと音がして、最初の雷が子爵を襲った。それと時を前後して、熱湯の柱が倒れて緻里を含み殺そうとする。
子爵のことを考えている暇はなかった。
風を身にまとい、上空の薄い雲の天井を突破する。軍服は難燃性だというのに焼けた。
雲はこんなに厚いのかと、腕で顔を覆いながら、ふっと雲から抜ける。
太陽の光が冷たかった。
大風を吹かせる余裕はなかったが、風を吹かし「酸性雨」を晴らさなければ、藤宮島防衛に差し障る。
面倒で大変な大風起こしに、気は進まなかったが、子爵の撃墜を確認する必要もあった。
小さな音から大きな音を鳴らすように、空気に強弱をつけて働きかける。周囲の冷気を取り込み、倒れた「柱」の熱によってまた大雨が降る。
風で散らしても散らしきれない、膨大な熱と水蒸気に嫌気がさす。風が制御できず反時計回りに回り出す。
低気圧や台風のエネルギーの「研究」に緻里は高校生の時取り組んだことがあった。あの時の雑駁な見積もりでは「なんとかなる」と思ったものだったが、今の自分には手に負えない。
ポンと何かが膨らんで弾ける音がした。
雲の中から空気が膨らんで弾けている。
「よう雷鳴、第二ラウンドだ」
「子爵さん。僕はもう汗だくだよ」
***
汗のしずくが目に沁みる。サウナに入ったみたいに、緻里は全身が発汗していた。
雲を構成する雨滴が服を濡らし、水蒸気化する熱が、体を焼いた。
水だったからまだよかった。せいぜい百度なのだ。
体を冷やすために雲の天井を抜ける。台風の目に子爵はいて、緻里を下から睨んでいた。
何か引っ掛かることがあったが、緻里は自分の態勢を立て直すことで精一杯だった。
相手が手番の時に消費する持ち時間で、なんとか息を整える。子爵は追いかけてこない。
上に広がる大空と、足元に連なる雲海が、緻里の緊張を和らげる。何かのためにその先鋒となる清々しさが、大いなる自然の風景とともに心に映し出される。先鋭化するわけではない。鈍麻することも紛らわされることもない。自然の中に自分の位置を確からしめることで、不安は消えた。
「怖えな」
透徹とした精神統一、自負や自信とは異なる、価値判断を要さない風格、怜悧なようでいてどこか「可愛い」感じ。
緻里の肌はきめ細かく、発する汗には香気が紛々としていた。どこかの貴族のような。
「ハッ、貴族のようなって、貴族は俺だ」
子爵は独りごちる。自らを奮い立たせようとする。手先はまだ痺れている。でもそれは、熱によるダメージを負っている緻里も同じことだった。
「見下すなよなぁ、おぉい。見下すなぁっ!」
「ありがとう、久々に楽しめたよ」
すうっと緻里は息を吸った。
子爵が供給した熱は、台風にとってはまたとない養分だった。
台風は大きく成長し、風は恐ろしいほど強く吹いていた。
緻里にとって台風は「大きな竜巻」でもあった。竜巻に触れたものはどんなものであれ切り刻まれる。台風は動き出し、その目の中心はすでに子爵から外れていた。
子爵は台風を「雨」だと認識していた。だがそれは豪雨による被害のような、地上の事情から来るイメージ。だが当然ながら海上では「風」が真の脅威だった。
風のに触れた子爵は、引き込んでくる力を過小評価していた。肩につくハエを払うみたいに、わずかな反応で事を済まそうとした。
台風の全貌をわかっているのは緻里だけで、その緻里でさえ、台風の片鱗から力を借りるにとどまった。それでも、恐ろしいほどのエネルギーだった。
巻き込むような低気圧の内回りの気流は目に見えない。緻里は戦いの中で解析した子爵の術式が、台風の風速に耐えないことを知っていた。
台風そのものを制御することはできない。大いなる台風の力を借りて、緻里は、子爵を葬り去ることを決意する。
ゴウと風が音を立てる。電車が通過駅をすごいスピードで通り過ぎるような物理音。
「さようなら子爵」
緻里は目を閉じた。「風に刻まれるところは見たくないよ」
***
海は荒れ、大陸の揚陸艇の乗員は、皆疲弊していた。上陸する大陸の兵たちを、水軸は銃座から連射し、簡単に葬った。
戦闘はそれで一区切りつき、緻里が藤宮島に降りた時は、まだ落下傘隊の死体も転がっていた。
荒京大佐に報告し、死体を片づけた。
徐々に死に近づいているような気もする。強いからといって生き残れる世界ではない。
「少尉っ、ご無事で。よかった」
藍月の目は潤んでいた。
台風が形を崩し過ぎ去った後の空は透き通るほど青かった。
汗を拭い、一息ついた頃にはもう太陽が天頂に位置していた。
兵糧にふさわしいおにぎりを喰む。水軸はタバコを吸ったが、緻里を誘うことはなかった。
「今頃艦隊はどうしているでしょうか」
子楽は言った。
「敵航空戦力が減ぜられたのだから、もしかしたら敵空母を撃沈しているかも」
想守は戦闘の高揚感を引っ張って、希望的観測を述べる。
「どうやろなぁ。空母を撃沈したら大戦果やけども。でも、台風すら作れるんやから、少尉空母も沈められるんとちがう?」
「買い被りすぎですよ、符綴さん。今回の台風は偶然の産物です」
「そう願いたいわ。もし空母を転覆させられるんやったら、そんな人とは怖くて席も同じゅうせん」
「差別されそうになってる」
みんな笑った。
短い時間で自然に集まった祝勝会が終わる。