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二十三章《紫路園》

「制約の言語回路」二十三章《紫路園》


 高い電波塔は北城市の公園、紫路園しじえんのそばにあった。


 大陸の観光地になる、大きな宮殿からは離れている。紫路園は、それを囲う高級マンションの真ん中に位置している。


 電波塔は城網塔じょうもうとうという名前で知られていた。


 外国からのどんな観光客も城網塔には上らないが、地元民には評判がいい。夜景を見下ろせると知っているのは、地元民だけだった。


 緻里が第二にいた頃に、その辺り(第三環状道)に住んでいる同学が案内してくれた。


 高さはおよそ四百メートル。北城市を一望する展望台。


 もうその同学がなんて名前だか覚えていなかった。


 ぬめり気のある空気、湿った夜の空、月はわずかに欠けていた。


 同学の名前を思い出そうとして、その顔を見ようとした。そこにあるのは緻里の知らない同学の顔で「なるほど夢だ」と納得するはずだった。


 今、隣にいるのは思純だった。


 そのタイミングが一体どのタイミングなのか知らないが、夢が再構築する物語は、思純をその場に呼んだ。


 知っていることと知っていることがくっついて、知らないことが背景に後退していく。記憶の切り貼りに少しばかり感謝する。


 緻里は、思純とはもう会えないものだと思っていたから……。


 紫路園を歩いていると、太極拳、ダンス、演劇、楽器それぞれをする集団に出くわす。それに緻里は圧倒される。熱量といい、肉体感覚といい、島国では見ることのなかった「気風」だった。


「思純さんはこういうことはするの?」


「踊ること? 私は踊らない。緻里くんは?」


「こんなの見たことないよ。もちろん、やったこともない」


 紫路園の土を何十人もの足が蹴る。その人たちは笑みを浮かべている風でもない。


 島国の高校生が、流行りのダンスに興じるのとは違う。だからといって職業的というわけでもない。形容する言葉が見当たらなかった。緻里は思純を見た。


 思純はもう踊りたくてうずうずしているという感じで、さっき「私は踊らない」と言ったのはなんだったのか。


 流れる音楽に体を馴染ませる。思純の手と指が空中に文字を書き、肩がカクカクとリズムをつかむ。


 城網塔は紫路園の端に敷地を構えていた。緻里は思純と紫路園を歩いた。


 過去の思い出のようでもあり、現在の裏側にはりつけられた幻影のようでもあった。夢の中で再構成された思純の、なめらかな乳脂の肌が、昼光色の紫路園のライトを、きれいに吸い込んでいた。


 それだけで緻里は鼓動を高鳴らせた。


 緻里は不意に島国の国道を想起する。


 島国の国道の、コンクリートとガードレールでできた、車とロードサイドのチェーン店のための、殺風景な空間。


 大陸の見ず知らずの空間が、島国の荒れた風景に重なった。でも、もう大陸にかぶれて久しい緻里にとって、この「荒涼」とした大陸の公園の風景は、単に馴染まないから否定する対象ではなく、知りたくて止まないミステリーとして目に映った。


 竹の林から葉のこすれる音が聞こえる。


 右にはヴァイオリンの音がする。


 左ではダンスのサウンド。


 響きがかち合うことがないのかと思うけど、左右の半球は領域が異なる。不思議だが、そういう舞台設定なのかもしれない。もとと言えば音楽は、音の存在を空間で定義し、一つの世界を開き、また閉じるものだから。


 桃源。閉鎖空間。校庭。何かに守られている。それぞれの半球に神性が宿る。どうして思純は「踊らない」と言ったんだろう。


 パノラマのように視界を移動させて、公園中を眺める。


「城網塔」


 思純が指差す。


「夜に歩くのはずいぶん久しぶり。私だって、ねえ? 女の子だから。夜はね。ほら、あなたがいるから」


 こちらを見ない思純を見ることはできなかった。髪型くらいは覚えていると思ったけど、夢の中では見るものも制限されて記憶をたぐるのもままならない。


 城網塔のエレベーターのしつらえは、古いホテルのようで、その中では時が止まり、火炎を模したみたいに瀟洒だった。ボタンパネルだけが、時代を語らずにはいられない古さを帯びていた。


 雲が敷き詰められて、連なっていた。


 雪が降っていた。雪雲は地上の光を焼けるように反射していた。


 飴色になった雪が、まるで火の粉のようで、地上の光は炎のようにゆらめいていた。


 ゆらめいていたのは、緻里の眼に涙が浮かんでいたから。わけなく緻里は泣いていた。


 陰陽が混沌として融合するように、視界からは全てが混ざり合った様子が知覚された。


 その中で黄金の雪の光だけが、形を保ったまま、チラチラと舞っていた。


「緻里くん」


 緻里は城網塔の外で、思純の作った階段をコツコツと叩いていた。塔の明かりが足元を照らす。


 ピアノの鍵盤のように音階がある。


 ゆるく曲がりながら、螺旋を描きながら、緻里は思純と階段で踊った。


 城網塔のライトが青色に変わると、途端に寒くなり、紅く光ると、体内まで燃えている心地がした。


 思純は傘を持って、演舞した。


 コツと緻里が一歩下りるごとに、思純は数歩コツコツコツと階段を叩いた。


 紅い傘の表面で、雪は火花に変わり、発火して落ちていった。


 風が渦を巻く。雪の花が集められて上空で火炎旋風を起こす。


 ぞくりとした。緻里の意思や関与に関係なく、火炎は広がり北城市を蹂躙する。


 でも、北城市は燃えなかった。


 雪は気がつくと雨に変わり、空気はとても冷たく、燃えない火炎の光を散乱していた。


 やがてその火炎は、穏やかにクルマのライトであることを主張し始め、緻里を混乱させた。


 狂いを秘めた音楽が奏でられた時の、孤独を刺し貫く痛みに襲われる。緻里は、周囲の景色を断片的にしか認識できず、やがて二歩先を行く思純に置いていかれる。


 階段は途切れ、思純はどこにもいない。


 雨が光を吸い込み、暗闇が訪れると、城網塔がやけに綺麗にライトアップされていた。


 紫路園に降りると、まだ吹奏楽の音も、タップダンスのステップも、太極拳の動きもそのまま保存されていた。


 あの火炎は一体なんだったのか。


「緻里くん」


 傘を開いた思純が緻里を傘の内に誘った。


 雨が降っている。紅い傘が開いている。


 柔らかく毛先がうねった栗の色の髪。頬を膨らませて可愛く誘う。


 夢の中だとわかりながら、自分の自由意志を疑う。思純の傘の中で安心することに、強迫的な抵抗を感じる。


「緻里くん? あ、あ、あー、緻里くん」


 夢に肉感を求め、真理を欲し、現実の関係を託す。


「そうだよ。緻里くん。夢で起きたことは、なんの意味もないんだよ」


 声が出ない。ぼおっとする。


「なんで、だ。僕は思純さんを好きだって」


 のどが痛い。声が出ない。「証明しているのに……」


***


「およ、起きはった」


 一瞬符綴が誰かわからなかった。先に名前が頭に浮かんで、「符綴さん」と風邪声で呼んだ。


「雨に濡れたからかなぁ、はい」


 体温計を差し出す。


「不自由ですね」


 くぐもった声で緻里は呟いた。


「そうやなぁ、でも少尉が不自由だったら、凡百はどうなるんやろ」


「凡百のことなんか、考えたことないですよ。そもそも、僕は人生で凡百に会ったことがない」


「お熱が脳に回ってきたんかな? 聞かんかったことにするけど。いい、緻里くん。高く飛ぶのは結構だけど、うちは飛べんの。わかるやろ? おい、寝てんのかい」


 もう一度思純に会いたかった。眠っても会えないこと、会えたことにならないことは、わかりきっていた。


 符綴は緻里の額に貼った冷えピタを取り替えた。


「苦しそう。不自由なんやな。お疲れさん」

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