二百二十八章《景治》
「制約の言語回路」二百二十八章《景治》
姫離が住居に定めたのは、海城市の団地だった。
臨海部の埋立地。眺めは綺麗だが、海城市の都市部に出るには少し不便だった。
姫離は車を買いたかったが、朝の渋滞に巻き込まれながら出勤するのもな、と思い、なんとか操れる限りのかっこいいバイクを買い、それに乗って通勤した。
一回姉が遊びに来た。後ろに乗っけて都市部を回ったが、妃君は慶宮市の時より楽しそうだった。
冬の折で、海城市は凍えるくらい寒かった。
「お姉ちゃんは今何やってるの?」
「内緒」
「結婚とかは?」
「それも内緒」
「はは、お姉ちゃん、何のために来たの?」
「姫離を見に来た。髪、紫なのは?」
「フェルンコス用」
「楽しんでるね」
信号待ちで声をかけられた。
妃君はとても驚いていた。姫離が適当にいなす間、妃君の手は姫離の服をギュッと掴んでいた。
何事もなく青信号が灯りバイクは発進した。
「なんて言ってたの?」
「可愛いね、どこ住み? って」
「何で答えたの?」
「この辺って」
「怖くないの?」
「お姉ちゃんなら日常茶飯事のことでしょ? さっきの人たちお姉ちゃんの顔に言ってたよ」
「大陸語って少し怖い。姫離も、姫離じゃないみたい」
「お姉ちゃんだってナンパくらいされるでしょ」
「ほら、最近は彼氏がいるから……」
「海城市は英語が通じるよ。私はもうほとんど英語は使わないから、忘れちゃったけど」
「ええ。案内にも英語が併記されていて、かなり助かった。タクシーの運転手さんも、英語が使えるのだから」
海城市海濱一号という団地の部屋に妃君を入れて、中国茶を淹れる。香りに比して味はストレートな茶で、姫離はその茶葉を気に入っていた。
妃君も小さい茶器でちびちびと飲み、何回かおかわりした。
ひとここちつくと、姫離は着替えて細いパンツの上にタートルネック、ダウンを羽織って出た。
背の高い妃君はさらに底の厚いブーツを履いていた。コートは珍しくカーキで、マフラーはしかしシックなものだった。
姉の泊まるホテルまでタクシーを使った。
例によって衣装だけでトランクをいっぱいにして来る。軽いトランクも、バイクでは運べない。
チェックインすると、姫離が冷蔵庫の中の梅ジュースとソーダを開けて、梅ソーダを作って飲んだ。
スモーキーな梅ジュースの味に慣れない妃君は遠慮したので、姫離は遠慮なく梅ジュースを一人で飲んだ。
夜の景色は世界でも有数。姫離もここまで美しいとは思わなかった。
団地から見える景色は、どちらかというと海に向いていて、都市部のきらびやかな明かりは知っていたが、上から見たことがなかった。
「彼氏と来なかったの?」
「姫離に盗られちゃうでしょ?」
「そんなことするわけないよ」
「冗談よ。私の姫離を独占したかっただけ。彼氏がいたら、姫離気を遣うでしょ?」
「そうかもね」
「ご飯、アイデアがあるわけじゃないんだけど」
「高校の先生の実家、近いの」
「へえ、なんて先生?」
「歳籍先生。お誘いをいただいていて、今日行こうと思っているのだけど、お姉ちゃんも来る?」
「もちろん。ありがとう姫離」
***
島国のお土産を持ってきているのが、さすが妃君だと言わざるを得ない。
流命が迎えに出てくれた。
「ようこそ」
妃君はびっくりした。その島国の言葉は、外国訛りがなかった。
「僕は島国の出身ですよ、お嬢さん」
「こんばんは。初めまして。第二で歳籍先生に大陸語を学んでいた姫離と申します。こちらは姉の妃君」
「お待ちしていました。お入りください」
広い家に目を回しそうになる。妃君の実家も金持ちだが、流命の家はもう二桁くらい違いそうだ。
リビングには料理が並んでいて、テキパキと寧婷が追加の皿を捌いている。
「綺麗な姉妹ね!」
これも島国の言葉だった。「こんばんは。寧婷と言います」
「姫離と、姉の妃君です」
「ようこそ。うちは家族が多いから、卓も大きくて。遠慮せずどうぞ」
妃君と姫離は、すでに席についている年少の男の子と女の子に挨拶をして、席についた。
ばらばらとリビングに人が集まる。流命と寧婷の末の子どもは、まだ大学生らしく、本を片手にリビングへやってきた。
「子どもが多くて、笑うでしょ」
寧婷は恥ずかしそうに微笑んだ。
醤油ベースの豚、エビと卵、果物、マントウが並ぶ。
姫離は食事の前に挨拶をした。
「久しぶりに島国の言葉を使います。こちらのうちの公用語はどちらの言葉なんですか?」
「大陸語だね」
流命が島国の言葉で答えた。
「すみません。姉は大陸語がわからないので、こちらでのご挨拶は、島国の言葉でさせていただきます」
そう言って姫離は招待への謝辞を述べた。
妃君も簡単に自己紹介して、礼をした。
食事はスムーズに進行した。
妃君は珍しく酒を呑み、緊張することなく会話を楽しんだ。
寧婷が話した西都への留学、月雪との交流は、妃君をして驚かせるに十分なことだった。戦争と戦争の間に、多くの陸島両国人が対岸へ渡った。
「月雪は、流命と仲が良かったけどね」
と言った寧婷の口調にはもう悔しさはなく、懐かしさと流命への信頼があった。
「僕も第二でした」
流命は酒を呑んでいなかった。
「緻里を知っていますか?」
姫離は流命に聞いた。
流命は首を振った。「名前だけです」と。
食事が終わった後、流命は妃君を車で送った。姫離は大学生の末弟と会話が弾んでいた。大学生の方が、姫離を車で送ると言ったから、姫離はそれに甘えた。
「交大?」
「本当にギリギリでした」
末弟の景治はため息をついて笑った。「本当に。母のとてつもないプレッシャーに、死ぬかと思いましたよ」
「すごいね。学部は?」
「物理です。あまり出来は良くないのですけど」
「立派な家ね」
「母方の持ち物ですが、うちは父で保っています」
「お母さんは美しい方ね」
「だから、僕は誘惑されてもなびきません」
「お母さんほど美しい人はそうはいない」
「ただ今日、例外を見つけました」
「お姉ちゃん?」
「それもそうですが、もちろん姫離さんも」
姫離は大きな声で笑った。
車を降りると、窓越しに端末をかざしあって連絡先を交換した。
「またいらしてください。歳籍は元気ですか?」
「たぶん。でも、景治くん、歳籍先生とそっくりね」
「兄の教え子が尋ねて来るだけの年月が過ぎたのですね。兄に写真を送りましたら、すぐに返事がありました」
「なんて?」
「みかけに騙されるな、可愛いだけじゃない、と」




