二百二十六章《紫爵》
「制約の言語回路」二百二十六章《紫爵》
紫爵は北城市第四から城市大の法学部、大学院で史学科を出た若手の研究者だった。
大陸の戦争法や、外交政策が専門だった。
陸島間の開戦の経緯や、停戦交渉、以降の外交政策を研究している。
幼少の頃から秀才で、ものを書く習性があった。
ちょっとした散文で、テーマは常に変わるけれど、書いて思考の筋道を明瞭にしておくことで記憶の固定の一助にしていた。
紫爵のものを書く習性は、気づいたら膨大な量のノートとテクストを、様々な媒体に生み出していた。
今考えているのは「生きたい」と「生きなければならない」の違い。「死にたい」と「死ななくてはならない」あるいは「死んではいけない」という言葉の意味の違いを研究していた。
現世利益の傾向が強い大陸人からすると、生死については自明のことも多い。そういう研究をするのは紫爵が島国の文献にアクセスできるようになったからだった。
学者としては二流だと、紫爵は自分で思っていた。
評価されることはある。でもそれは、他者が理解できる範囲での賞賛でしかなく、世界を改変するような文章を綴ることは、まだ遠い未来の話だった。
本を読んで暮らしていけることを望んだから、紫爵は学者になった。
その選択は間違ってはいない。知的な誠実さと自分の書き散らす散文の相性がいかに悪かろうと、それによっていかに脳髄が引き裂かれようと、自分の選択に不満はなかった。
緻里のことは、ちょっとした暇つぶしだった。
遠い親戚に緻里の話をしてくれる人がいて、その人はもう死んだのだけれど、その結果ゆえに興味を持ってしまったというのが正直なところだ。
大陸と島国は、光と影か、あるいは地球と月のようなものだというのが、歴史が示す両国の関係だった。
つかず離れず、両国の歴史は同時的だった。
海を隔てているために、全てを反映するわけではない。でも、距離的に、文化的に隔たりがあるというのに、この長い世界化の時代において、両国は文脈を常に共有していた。
短い例外を除いて、大陸は世界に冠する一等国であり、島国は長い間国際的に例外的な地位を世界から与えられていた。
それは独特の自意識を国民に植えつけた。国家の中に組み込まれていることで、他国を蔑んだり、引け目を感じたりする。そういう点で両国は、常に厄介な国民を腹に抱えていた。
戦争の理由は、政治がそれを利用したからだというのが、多くの研究から明らかになっている。
ただ自意識を慰めるために人を殺すことを、島国も大陸も同意していたのだろうか。あるいはその国民は?
国民というくくりが、適切でない時代なのかもしれない。国家に自らが属していることに批判的な国民は、どの国にもいる。逆に国家というくくりを必要としている人ももちろん少なくない。
この時代にあって、血は混ざり、人的交流は不可逆的に起こっている。それでも、あるいはだからこそ、ナショナリズムは高揚し、翻って国家に害をなす。
両国の言語を学ぶものは、島国においては全人口の五パーセント、大陸では四パーセントにとどまっている。
それらの存在はどちらの国でもエリートと呼ばれ、対岸の国の言語を学ばない人にとってはとても疎ましい存在だった。
売国的だし、宥和的だった。
戦争を回避するというのが、その約五パーセントの言語話者の使命だった。マジョリティにとっては、それがとても弱腰に見えるし、メンツが立たないように感じられる。
東アジアにおける覇権的な動きは、大陸だけのことではない。島国の政治的課題であり、「防備」のために蓄えた軍備は、そのまま実際の戦闘に投じられた。
ただ両国の戦争に対する一般的な認識として救いであるのは、その戦争を誰も「正しい」か「正しくない」かで判断していないことだった。
そんなことは誰もがわかっている。だから政治はそのことについて敢えて説明する必要がなかった。仮に政治家がそれを「ことの正否」に基づいて説明したとしても、背後にある単極の戦争の本当の説明になっていると考える国民は、現在において「ただの一人も」いなかった。
つまり、政治はもう、取り繕うことを諦めた。諦めたというか本来的には最初から、国民には戦争の理由なんて知るよしもなかったし、当代において戦争を肯定する理論は、反駁され尽くしていた。
そしてそれでも現に、戦争はあった。
***
「どうしてでしょう? なぜ私たちは戦争を忌避するのに、これほどの戦火を生み出せるのでしょう」
「? 私に聞いているのですか?」
姫離は、島国の言葉で緻里が吹き込んだ音声ファイルの翻訳を手伝っているかたわら、紫爵から質問を受けた。
「ええ。姫離さんのご意見を聞きたい」
「わからないです。単なる凶暴性の発露な気もしますし、忘れただけのような気もします。緻里の言葉に出てくる《想像力》とか《殺人の否定》という日常の思いやりは、戦争になった途端に、どこかへと消えていってしまいます。それは、私たちが保持しなくてはいけない感覚なのでしょうか。それとも、そういう《日常》は、緊急事態においては、忘れるべきなのでしょうか」
「《日常》。《平和》ではないのですね」
「平和を希求すると言うのは、なんだか私には間抜けに感じられます。それは戦争をする人たちの語彙であり、誰にとっても当たり前の、腐乱した言葉なように思えるからです」
「おそらく、島国の方にこの質問をするのは、卑怯であり看過できないかもしれませんが、なぜ、島国は大陸と戦争をするのですか?」
「理由があれば、納得できるのですか? 理由がないと、納得できないのですか?」
「そういうふうに、島国の方が考えているのだとしたら、私たちの答えは反対です。私たちに戦争をする理由はない。理由があるとすれば島国の側にこそあり、大陸は島国の誘ってくれたダンスに、付き合っているに他ならない、と」




