二百二十二章《意地》
「制約の言語回路」二百二十二章《意地》
土砂降りの雨を窓の外に、朝方姫離はレポートを書いていた。飛海は外に出ていておらず、パソコンに打ちつけること数時間で、二千語のレポートを完成させた。
AIに文法の誤りをさらってもらって、教授のチャットチームに送りつけた。
姫離はそれからしばらく眠ると、起きたらちょうど昼過ぎになっていた。
雨は霧になっていた。
マッキントッシュのレインコートを羽織り、食堂に向かった。
霧は美しく白く、キャンパスを霞ませていた。
牛肉のパイを買ってかじりつき、カフェでミルクティーを頼んで飲んだ。
まるでタバコを全身で吸っているみたいだと姫離は錯覚した。喉奥に入り込むと酔ってしまいそうなくらい濃密な空気だった。違う世界に入り込んだみたいな。
「季節的にいつもそうなんだ」
飛海は言った。「この時期はけぶるの」
「ぼんやりするね。景色にとらえどころがないっていうか」
「この季節の高校の授業は、私結構好きだった。もちろん高考はあるんだけど、どこかみんなふわふわしてて。島国にもそういうのないの?」
「あるよ。花冷えの時期の暖房とか、ぼおっとしてくる」
「東風吹かば/においおこせよ/梅の花/あるじなしとて/春な忘れそ」
「なにそれ?」
「姫離、知らないの? この前島国の言語の授業で習った。菅原道真」
「知らない」
「いい歌だと思ったなぁ」
姫離はきまりが悪そうに笑った。
「こちって何?」
「東風」
「こちって言うの?」
「そうらしい」
国語の授業をガン無視していたツケが回ったらしい。姫離はうなった。
「フェイは詩歌が好きなの? たまに漢詩口ずさんでるけど」
「え? 普通だよ? 姫離がアニソン口ずさんでるのと一緒」
「全然違うような気がするけど」
***
「明月さん誘ったりしないの?」
「しない」
「なんで?」
「なんとなく」
「誘われるのを待ってるの?」
「そういうわけでもない」
「じゃあどうして? 気になってるんでしょ?」
「たぶん」
姫離は言葉を探した。「たぶん、明月は私を気にしていない」
「そんなことないよ。姫離は可愛いし、男の人だったら絶対、気にしてくれてるの嬉しいと思うよ」
姫離は自嘲気味に笑った。
「それは、私を好きということではない。そうじゃない?」
「私を好き? 私っていうのが何かあるの? 姫離にとっての私って何? そんなの自分でわかってたらそれでいいじゃん。姫離の前の彼氏は、姫離をわかっていたの?」
「元彼は、私のことをよく知っていた。私のことをわかっていたわけじゃないけど、私の振る舞いに寄り添ってくれた。でもそんなことを、明月に求めるわけにはいかない」
「矛盾してるよ。知って欲しいし、わからなくても寄り添って欲しいなんて。でも」
「でも何?」
「女の子って感じがする。くっきり別れてない。集合の重なりがまるで癒着した臓器みたい。むかつくのはさ、女の子なんて男に可愛いと思われていたらそれだけで嬉しいのに、それで満足しないところ。そういうところだよ?」
「フェイは、可愛いって言われたらそれでいいの?」
「そんなこと滅多にないの! 私は、姫離みたいに可愛くない。姫離はずるいよ」
飛海は、この時「ひめ」とは呼ばなかった。「頭が良すぎるよ……。私を否定しないでよ」
「ごめん」
「姫離は、《ある》んだよね」
「うん」
「どうだった? 楽しかった? 気持ちよかった?」
「何もかも無感覚の中で起きたことだから」
「やっぱり、姫離はそう言う。私は《あなたは女でしょ?》って聞いているの。人としてどうとか、尊厳がどうとか、そんなのどうでもいいんだから! なんでそうやって高等ぶるの? 人間はみんな姫のように複雑じゃなきゃいけないの? 私を馬鹿にしないで。私には私を好きで私と寝てくれるかっこいい男の人は一人もいない。高校の頃好きだった人は浙京に行った。浙京に行く学力も留学するお金も私にはないの。ただただ、幸せになれたらって思うの。どうすればいい、どうすればいいと思う? 姫は孤高のくせに、一人になったことはないんだ! 私にはたくさん仲間がいるけど、ただの一人も私の孤独を癒してくれない。どうすればいい。我怎么做才好呢?」
「フェイが、どうすればいいかは私にはわからない。フェイは少なくとも肌が綺麗で、広いおでことか、細い髪の毛とか、薄い唇とかは、人によってだけど気に入ってくれる人はいると思う。笑顔は可愛いし、詩歌を誦じられる記憶力もある。思い出は覚えているし、仁義に厚い。かっこいい人を求めているのなら、それら全ては二次的なものになる。私が言っているのは、私が好きな人が私を好きである確率の話。かっこいい人とシたくて、フェイが明月をかっこいいと思っているなら、話は単純だけど」
平手が飛んできた。姫離はそれを甘んじて受けず、手で止めて反撃した。
二人は机を寄せて、パソコンを閉じ、それから正式に掴み合いの喧嘩をした。
姫離も善戦したが、飛海はかなり喧嘩慣れしているらしく、姫離の上を取って容赦のない平手を姫離のガードの上から繰り出した。
意地もあったが、姫離は降参した。戦争に負けたのである。領土の割譲も賠償金の支払いもなかったけれど、最後に吐かれた「ちょっと胸が大きいからって調子乗んな」という言葉に、結構ぐさっときた。
それは実際、姫離が飛海に対して持っていた優越感の理由の大部分を占めていたからだった。
結局自分も女として、飛海と自分を比べ、女として明月に心を寄せていたのだという飛海の洞察は、概ね間違っていなかったことに納得させられたのだ。




