二十二章《熱》
「制約の言語回路」二十二章《熱》
司令室に駆け込むと、すでにそこには水軸・子楽・想守・深了が各々の持ち場についていた。
「報告。小型揚陸艇四隻、接近中。距離二キロメートル」
「その後方よりヘリコプター三機、敵航空母艦より発艦の模様」
「ミサイルによる攻撃、現在地対空迎撃システム稼働」
「荒京大佐と通信しています。少尉!」
「荒京大佐、緻里です。現在交戦まであと一時間、敵上陸作戦について、異能の存在が考えられます。海上で迎撃撃退し、藤宮島の基地を死守する所存です」
「必ず」
短い言葉で荒京大佐は口火を切った。「必ず。敵は我々の海上保安体制の隙を突いてきた。上陸作戦は向こうも賭けではある。だが、藤宮島が『こちら』か『あちら』かは、目に見えて大きなところであり、作戦上の大きな分岐点だ。ミサイルには気をつけるように。海上航行上の作戦に関しては、特に共有しない。上陸を防ぐように。以上」
敬礼を交わして、緻里は荒京との通信を切った。
ドタドタと深了は水軸とヘリに乗った。
ヘリポートでは符綴が手を振ってる。
「怪我せんといてくださいね」
「少尉は、ヘリに乗らないの?」
深了が聞いた。
「乗り物酔いするからね、飛んでいく」
「飛んで、って!?」
大風が吹く。土煙に目をつぶっていると、緻里の姿は遥か遠くだった。
「やば、めちゃかっこいいやんか」
***
風を切るのが楽しい。昔もそうだったのだろうか。緻里は飛びながら敵のエリアに雨雲を集める。
春のなだらかだった海面は、徐々に振れ幅を大きくし、波は波浪になった。海水を切って進む敵の揚陸艇が、左右に揺れる。
舵が効かなくなるにはまだ風が必要だった。
小さな低気圧の形成とともに、雨が降る。緻里はこの雨も好きだった。雨の欠片が、額や頬に付着する。それを愛おしむようにぬぐいなじませる。
天候の良好だった今日、島国の艦艇航行の隙ができて、絶好の「お散歩日和」のはずだった。
突然の大波が船にかぶさる。敵は目に見えて混乱している。
悪魔か何かのような役回り。
「飛んでいる……」
波間をたゆたう揚陸艇を下に見ながら、緻里は敵のヘリコプターを目指す。
大風でヘリも右に左に往復ビンタを喰らっている有様だった。
銃座に狙われていることに気づかずに、緻里はヘリに接近する。
(怪我せんといてくださいね)
発砲音と同時。バリバリバリと機関銃の音がつんざく。左右に逃げるか上下に逃げるか、迷った数瞬、豪と風がうなった。
一機のヘリが緻里を見失い、ガタガタと音を立てて海面へと不時着した。
下から吹き上げる風に、操舵不能になる。残りの一機も鉄が噛んだような異音を発しながら、落ちていった。
呆気に取られるのは揚陸艇の乗員たちで、みな、開いた口が塞がらない。戦慄の電流が首筋を走り、自分の未来まで想像することも阻まれている。
緻里は確かに悪魔だった。
揚陸艇を置いて撤退する最後のヘリに雷が落ちたとしたら、それを誰が「偶然」と言うだろうか。
「雷鳴……」
渦巻く低気圧の雲が切れて、中心から陽光が差し込む。穏やかな空気に呆けてしまう。
揚陸艇はヘリの乗員を救うべく、向きを変えた。「来てくれるな」と念を押すように、じっと緻里を見る船員たち。銃でも爆弾でも、向けられたはずなのに、手が指先まで弛緩して、物を持つこともできないでいた。
「……緻里少尉。荒京だ」
「大佐。お疲れ様です」
「それはこちらのせりふだ。初任務は上首尾に終わったようだな。季節外れの台風が観測されて消えた。帰りはヘリに乗せてもらうといい。貴殿には必要のない代物だからこそ、体験しておくのはいいことだ。私もたまに乗る。……任務は一日に一度とは限らない。くれぐれも、気を抜くことのなきよう。ご苦労だった」
「通信は良好。天候の影響はない。深了さん、乗せてもらってもいい?」
「了解」
ホバリングするヘリに乗る。誰も何も言わなかった。
目頭を押さえ、ふうーっと大きく息を吐く。緻里はハンカチで髪についた水滴をぬぐう。
「異能は現れなかった」
独り言はみんなに聞こえたが、誰も反論しなかった。味方のヘリを置き去りにし、一人で片をつけた。一人目を瞑って、反省している。喉が渇いたが、飲み物を要求する雰囲気ではなかったから、唾液を嚥下した。
水平に、極めてスムーズに動くヘリ。深了の腕がいいのかもしれない。
ヘリが藤宮島に着陸すると、司令室に子楽を残して、みんなが緻里の帰還を待っていた。
水軸の後に、緻里はヘリから億劫そうに体を降ろした。
水平線に太陽がゆらゆらと輪郭をゆらめかせて没していくところだった。海上のオペレーションは完了しただろうか。緻里はそんなことを考えていた。
水軸は、緻里が降りるとおもむろに向き合って敬礼した。ザッと靴が砂を払い、迎えに来た想守も敬礼する。ここは海の上に浮かぶ島なのだと、不意にそんな感慨が緻里を襲った。緻里も敬礼する。
緻里は笑顔を見せた。
藍月がバタバタと駆けてきて、何かを言おうとしていた。息ができない金魚のように口を開けては閉めて、閉めて、また開けた。
「そんな簡単にやったみたいな顔、しないでくださいよぉ」
泣きそうな顔をしていた。
「ごめん」
緻里は目尻を落とした。
「あの、っ、その。っ、っ、さっきの……」
「にゃーぁあー、緻里少尉ー、緻里くん! 映像の一部始終、たしかに拝見っとと、ねえ、大丈夫?」
「へ?」
「顔が紅いやん。ちょっと待ってな、お熱測りますー」
符綴はポケットから体温計を出して、緻里のおでこにかざした。
「ふわわ、なんや、風邪ひいとるん?」
「へ?」
「だから風邪っ……おぃい。水軸さん肩持ったげて。医務室。ベッド空いとるから。ほら、早う」
緻里はそれからの記憶がなかった。
体が熱を帯び、体を巡る血液が同じところを回っているのではないかという気がした。
清潔なシーツのにおい。目頭が重くてまぶたが持ち上がらない。諦めて寝ている。部屋を出入りする符綴のことも気にならない。ひどく喉が渇く。熱のせいか体がとてもだるい。
ぼぉっとしている頭は、自然と大陸語の術式を演算していた。なぜ演算するのかわからなかった。不思議な「文学」が脳内を「円環」する。それが自分の中にある、根源的な文学で、それは思純となんらかの関係があるはずだった。そんな気がした。でもそれは、具体的な言葉にならない、概念化されていない。不可解だった。既決と未決の過去と未来に、まさしく引き裂かれたぼんやりとした像。
無意識より預言、神ではなく欲望が、緻里の術式を構築していた。
「目を瞑ってても、符綴姐さんはわかりますっ! 女の子のこと考えてるやろ?」
「なんで、わかるんですか……」
「生存本能。みんなそう」
「なるほど」
「大陸語に堪能なのは、……そゆことぉ! 姑娘を好きになった」
「言わなくてもいいじゃないですか」
「悲恋だね」
「いつか、平和が訪れたら、いつか北城市をまた歩けたら、もしかしたら会えるかもしれないって」
「はいはい、死亡フラグ死亡フラグ」
「この看護師さん嫌いなんですけど」
「さむない? 毛布いる?」
「いりませ、けほっ。けほ」
「のど痛い? のど飴いる?」
ぼんやりした意識はやがて落ち、真っ暗な世界の中で緻里は沈潜していった。