二百十七章《烏の世界》
「制約の言語回路」二百十七章《烏の世界》
姫離はその日、簡単に演壇に立ってスピーチをする機会を得た。
大陸語のスピーチコンテストとは、いささか向きが違うけれど、ともかくそういうような場で講じた。
慶宮市重山に留学している学生が一堂に集う。半分授業、半分プライベートの活動で、姫離は飛海を伴わず一人だった。
会のコーディネーターに明月という島国の言葉に堪能な大陸人がいた。
「女の子みたいな名前でしょ?」
そう言って笑った。「めいげつ、で全然いいよ」
それで姫離はその男の子にくっついて、会のパーティーを乗り切った。
明月は背が高く、眼鏡をかけていて、カラスみたいに黒い髪を後ろで縛っていた。特別長い髪というわけではなく、長髪のいやらしさみたいなものも全くなかった。
明月は大学三年で、成川市出身。
大学附属のレストランで、わいわいと食事をする。
その時、姫離は明月を見失った。
いろいろな言語が飛び交う。英語で話しかけられた時は「英語なんて忘れたよう」と英語で言った。
長い髪を後ろで束ねて、男の子っぽい服装で、いかにも女にモテそうな、可愛格好いい振る舞いは、とても島国的だった。
姫離の無口は雄弁を否定するものではなく、スピーチはきちんとした精神性を証明していたから。無口を咎める人はいなかった。
目についたものをぱくぱくと食べ、適当に人と話し、笑顔を見せるだけで、姫離は一応の仕事をしていた。
大学生らしい囃し立てる空気からは適度に遠ざかり、適当な人を見つけて真剣に話していますという雰囲気を作った。
そういえば、明月はどこに行ったのだろう。
姫離は会場を見渡した。
運営は運営でやることがあるのかもしれない。
肉を食い、ジュースを飲んで、みんなが歌い出したタイミングで、姫離はレストランを後にした。
上げていた髪を下ろし、ため息をついて一歩、夜のキャンパスに足を踏み出す。
「なあ」
明月が後ろから声をかけた。
「何?」
「帰るのか?」
「うん。もう夜も遅い」
夜の闇と湿気がむせるほど濃密だった。必然体は温まり、汗が胸元に滲んでいた。
「寮は? 何号棟?」
「十二。送ってくれるの?」
「おれの帰りもそっちの方だから」
明月は姫離を促した。
姫離は目の端に明月を収めていた。顔の角度を変えず、目だけ動かして。
二人は特段話を弾ませることもなく、広いキャンパスを歩いた。
「じゃあ。ここだから」
そう言って姫離は女子寮の入口に立って手を振った。
明月も手を振った。
姫離が階段を上がってから少しして、思い立って忍足で階段を降りて、明月の後ろ姿を首を伸ばして目で追った。
明月はもういなかった。
ふ、と姫離は自嘲した。
それから自室に戻って勉強道具を取ると、図書館に向かった。
図書館は皓皓と明かりをつけ、闇夜にくっきり輪郭を浮かばせていた。
姫離はまたため息をついた。
自分の手元にあるノートと本とペンが入ったトートバッグを、ぎゅっと抱きしめた。
それから図書館に入ってゲートを通った。
予約していた無音ブースに入り、日付が変わるまで勉強した。
図書館から出る時に、一度後ろを振り返った。
なんのことはない単なる人影に、惑わされている自分に笑った。
それから寮の部屋に帰ると、飛海がゲームをしていた。
「おかえりー」
「ただいま」
「晩会、楽しかった?」
「そこそこね」
「遅かったね」
「一回帰った。そこから図書館に行ってた」
「電気つけっぱなしだったよ」
「え?」
と言ってから、姫離はおかしいとばかりに笑う。
「どうしたの? 何がおかしいの?」
「いや、あまりに気を取られてたんだなって」
「気を取られてた?」
「いい男がいた」
「珍しい。姫離がそんなこと言うなんて」
滲み出る可笑しさに、姫離は声を出して笑った。自分の意外な側面を知って、嬉しくなったのか、それとも呆れたのかは自分でもわからなかった。
***
烏が夕方、人の少なくなった大学のキャンパスを、珍しく滑空していた。
山がちで平らかではないキャンパスの大通りから、講義棟の屋上の端に停まると、講義を終えてパラパラと帰る学生を見下ろしていた。
その片目で山を、片目で川の両岸にある慶宮市の街を収め、仲間を見つけると追いかけて飛び立った。
烏の視界はいつも開けている。
橙の街灯がつく頃になると、烏はその川とその山が変わらないことを半ば当然視して、繰り返し訪れる街の朝と夜を見守る。ゆっくりと揺さぶる翼は、空気を叩き風を起こす。
くぼんだ地形の慶宮市は、川と烏だけが気流を生み出す存在で、それがこの街の唯一の自然だった。




