二百十六章《コスプレ》
「制約の言語回路」二百十六章
坂道を歩き、エスカレーターを上る。
動くだけで、汗が吹き出る。
使われていない空き地とか、壊れかけた建物とかを覗く。時たまに見てはいけない光景を目にすることもあるけれど、概ね楽しい。
姫離が入った人文学部には、島国のアニメや漫画が好きな学友が何人もいて、美人だから近づくというのではなく、本場のサブカルを学ばせてくださいと、姫離に弟子入りする子が何人もいた。女の子には「でも大陸のBLって世界最高水準なんじゃないの?」とかわすけれど、島国の「古き良きBL」を知る(と、思われている)姫離は、師匠なのだ。
島国の言葉をラノベ原作のアニメで学ぶ大陸人は多く、「経典」を暗唱できるレベルで読み込んでいる姫離はまさに生き字引だった。
「ねえ、あれ読んでる?」
そう聞かれて読んでいないタイトルなどない。解釈も達者で、テーマを解き明かすのに使われる語彙は、この世のものとは思われぬなめらかさだった。
慶宮市のコスプレイベントの話題が出て、うんうんうなずいて学友の話を聞く。
「いや姫離出るでしょ?」
大陸語がわからないふりをするが、ぞろぞろと続く弟子たちの前で、もう幽鬼コスをやることを断れなくなっていた。
弟子たちはいそいそと師匠の晴れの舞台を準備する。
コスプレが好きな大陸美人は何人もいて、中でも一年上の藍嵐は、美貌といい、凝った化粧といい、スタイルといい特別だった。
藍嵐の一強だったコスプレイベントに、島国人が鳴り物入りでカチコミをかけたような形。
藍嵐は、しかしそれがとても面白いと思ったらしく、時に応じて姫離とコンタクトを取るようになった。
藍嵐は背が高い故に、幽鬼のような女の子のコスプレはできない。
今回の藍嵐の衣装はスターレイルのカフカだった。
姫離は純粋に藍嵐に敬意を持った。背が高いし、凝り方がすごい。
姫離はコスプレしたことはなかったから、いろんなことを藍嵐に聞いた。
青目のカラコン、ハロウィンのマントと帽子。
タイトで珍しい衣装じゃなかったから、容易に求められた。あとはパンプキンの空ランタンにお菓子をたくさん詰めて参加した。
もちろん銀に髪を染めて。
***
銀髪のまま授業に出ると、かなり人目を引く。
それが不釣り合いな容姿だったら、何の問題もなかった。ことは美しい姫離である。
「なんか、遠くにいっちゃったような気がする」
飛海は悲しそうに言った。
「私は変わらない」
「でも、私なんかと朝ごはん食べてていいの? もっとさ、ほら」
「ルームメイトと朝ごはんを食べるのは普通」
銀髪を丸めて巻き、チャイナドレス風の服を着る。
腰が細く、うなじから開いた背中にかけて、綺麗な乳脂の肌が匂う。
実に驚くべきことだが、姫離が島国の人と知れると、姫離と話すために島国の言葉を勉強する人が現れたのだ。
島国の言葉を教える先生が、アルバイトで姫離を雇った。空きコマで音読要員として授業の運営する側に回ると、その驚くほどの美しさに、美人ばかりを見ている大陸の男たちも、息を呑んだ。
その少し冷たい雰囲気といい、他人に無関心に見える様子といい、人付き合いの悪そうな言葉遣いといい、まるでアニメから出てきた等身大の美少女に見えた。
でも、勇気を出して声をかけてくれた同学を邪険に扱うことはなかった。
その時垣間見える笑顔にやられるのだ。
どんどん知り合いが増えて、手がつけられない。
姫離は、ほとんど知らない人から声をかけられる。銀髪は常に手入れされていたから、外から見て姫離を見間違えるということはまずなかった。
誰が姫離の相手になるのか、みんな気にしていた。
「好きな人はいないの?」
飛海は姫離に聞いた。
「フェイは?」
姫離は飛海に返した。
「うーん。わかんない。でも付き合いたいよ」
「なんで?」
「楽しそうじゃん。高校時代はできなかったし」
「フェイ。普通の女の子の顔をして、その実いろんなことを考えてるよね」
「ん? どういう文脈?」
「普通のこと言ってるけど、本心じゃないでしょ」
「あー、私はぁ、逆に何にも考えてないんだよ。姫離とは違うよ」
「私も、何も考えていない。ニワトリと一緒」
姫離は珍しくくすくすと笑った。
***
冬が来て、慶宮市でもコートが必要な季節になった。
煙る冬の排気ガスが、雨に流された。
姫離はコートのフードをかぶり、図書館へ向かっていた。重山大の校舎は、その壁の塗料を雨に溶かしているみたいだった。
現代的な図書館は、資料がとても豊かで、姫離の目を楽しませる。広い図書館には勉強する学生がたくさんいて、ほんの数年前まで勉強を忘れていた身としては、気持ちの引き締まる光景だった。
姫離はこの雨の日に、大学に来て久々に一人の時間を作った。
勉強する時にかかる集中力は、中学受験由来のものだけれど、何かの目的なく勉強する習慣はなかったから、島国の秀才の例に漏れず、浮き足立つ思いだった。
芯の入った勉強というわけではなく、気になる文献をそぞろに読む。大学の勉強というには少し適当だが、悪くないと思った。




