二百十五章《使命がある時代》
「制約の言語回路」二百十五章《使命がある時代》
コンクリートの階段を上がるのが普通の歩く町。慶宮市。ビルに入り込む、どう一体化しているのかわからないモノレールまではエレベータで上がって、数駅行ったところに飛海の実家はあった。
こんこんこんと扉をノックした後、鍵を開けて部屋に入る。
少し独特な匂いがする。
「お母さんまだ帰って来てないみたい」
古いコンクリート。鉄の扉。軋む蝶番。料理の後の香辛料の香りと、掃除の行き届いていない床。
マンションですらない、なんと言っていいのかわからない住居。扇風機が回っている。
「ごめんごめん。お菓子とお茶持ってくるね」
飛海は、パタパタと台所へ向かった。
「ソファに座っててー」
姫離はゆっくりと部屋の中を見渡す。かなり広い。
普通に百平米くらいはあるだろう。廊下みたいなものが見当たらない。
「お父さんは出稼ぎに海城市に行ってるの。でも春節には帰ってくるよ」
「広いね」
まるで古いテレビの映像を見ているような、効果のかかった光景で、思わず姫離は喉を鳴らした。
扉のない部屋の一つ一つを覗いて、姫離は飛海の部屋を見つけた。
参考書や教科書が縛って積んであった。
まるで薪のようだ。
胸に込み上げるものがあった。そのために焦げつくほど悩まされた飛海の時間に、深く哀悼を捧げた。
「みんながみんな、頭がいいわけじゃないよ」
お茶のコップは古いキャラもので、それを姫離に渡した。香りのキツくない、シンプルな茶だった。
お菓子はガムのように粘る甘い羊羹で、お茶とよく合った。
「うちはみんな農民出身だから、大学に行ける時代なのにはほんと感謝するけど、あんまり勉強ってか教養みたいなのがなくて」
「そんなものはなんの役にも立たない」
「思わない? ここにいたら髪を切ることも忘れちゃうって。お母さんが見たらびっくりするよ。どこで髪切ってきたの? ふふ」
「美人だと思うよ」
「え、そう?」
「うん。でも、悪い男に引っかからないように。褒めてくる男は大概疑うべきだよ」
「じゃあ、姫離は疑ってばかりじゃない?」
「本物の美しさには、言葉ではなく態度で示す。言語化されるものはまるめられて矮小化されたものだから」
「じゃあ姫離はどうやって男を見分けるの?」
「印象」
「なんかお母さんみたい」
「お母さんも美人なんだ」
「そうなのかな?」
かちゃりと扉が開いて、母親が帰ってきた。
「友達?」
姫離は深々と頭を下げて自己紹介をした。
「島国からの留学生。ルームメイト」
飛海も姫離を紹介した。
「あー、よろしく。飛海、髪切ったのね」
「うん」
「おばあちゃんから、お祝いが来ているから、テーブルの上に置いてあるわよ」
「え、やったぁ」
飛海はパタパタと自室に行って、机の上の封筒を開けた。電話をかけている。
「どうも。お邪魔しています」
姫離はイケボで再度挨拶した。
「あの子、バカだからお手柔らかにね」
「とんでもない」
「島国は行ったこともないし、知っている人もいない。知っている言葉も知らない。姫離ちゃんもそうじゃないの?」
「先生はハーフでした。先生のお父様は浙京を出た島国の人で、結婚して海城市にいます。そう遠いところとは私は思いませんでした」
「いるところにはいる。网海や城街みたいな場所に行くだけの元気があればね」
「慶宮市も、とても活力があります」
「電気代の無駄遣いをしているだけ。私たちはまだ貧しいし、大学を出ても職はない。だからいつも戦争をする。戦争についてはどう思ってるの?」
「政府の考えることは、私たちにはわからないです。でも島国の天妓の話は知っていますか?」
「古い時代の人よね」
「古い、ですか?」
「使命がある時代の人ってこと」
「そういうこと……ですか」
飛海の可愛い声が部屋に響く。あれほど明るい子が育った場所なのに、部屋にかかる効果はどこか沈鬱としていて、停滞していた。
「戦争は経済活動だから」
そのせりふは、たとえば「結局あなたは左翼なんでしょ?」というマルクス主義批判の断言口調にとても酷似していた。単純化しないと頭に入ってこない。どんどん子どもが理解できなくなる。でも愛している。母親として向き合うために使う精神力が枯渇している。
わからなかったことが一つ解けた。母親は珍しいタバコを吸っていた。島国にはない新鮮なタバコだから、タールより葉の香りが強い。部屋に漂う燻った香りはタバコが原因だった。
母親は立って冷蔵庫を開けると、振り返って聞いた。
「ご飯食べて行くでしょ?」
姫離は少し楽しみだった。大陸の家庭料理なんて食べたことがない。
かんかんかんと鉄鍋を鉄製のおたまが叩く。
ラー油のスープに入った水餃子。麻婆豆腐。炸醤麺。
戻ってきた飛海に、小さい声で聞いた。
「ウーバーで飲み物を頼むよ。それくらいさせてくれていいでしょ」
それを聞いた飛海は母親のところに寄って、そう聞いてくれた。
瓶ビールを三本と小さな紹興酒。
姫離と飛海はミルクティーだった。




