二十一章《昂り》
「制約の言語回路」二十一章《昂り》
周辺の海域でどのように艦艇が動いているか、それは敵のことも味方のことも把握していなければならない。
無口な子楽から、レーダーについて簡単な解説を受ける。一度も緻里の方を向くことなく、木の葉のこすれるような声で、途切れ途切れ話す子楽は、緊張しているのではなかった。年は緻里と同じくらい。多分大学時代はセミウルフで、卒業してからショートウルフに変えた、少し男の子っぽい髪型は、無口だが誠実な雰囲気を醸していた。
「少尉は、レーダーを大陸語でなんと言うか知っていらっしゃる」
「雷达-lei da-」
「やっぱり」
「やっぱり?」
「いえ、そうなんだろうなって。大陸語には興味があって。でも私は技術系で全然語学の素養がなくて」
「でも、わかったんだ」
「はい」
その時目に入った子楽の瞳に、好奇心と向学心を秘めた輝きがあることを、緻里は認めないわけにはいかなかった。
素養がないというのは本心なのかもしれないが、そんなことはないと緻里は思った。
「大陸の通信にそういう単語があったのが気になった?」
「そうです」
緻里は自然に笑顔になった。
大陸語を学ぶことは、島国ではかなり違和感のある試みだったし、学ぶ方法も限られていた。
「規則的なリズムと息遣いが、どんな感情を伝えるんだろうって。……す、すみません、大したことではありません。でも、向こうの国の人も、私たちと同じように、あ、あの、あの、……なんでもないです」
「今天下雨了-Jin tian xia yu le-」
「今日は雨が降った」
「わかるの?」
「ふふ、なんとなく」
子楽の笑い声につられて、緻里も声を漏らした。
「年が近いからかな、仲良いね」
深了が司令室に入ってくる。
顔を強張らせて、子楽は目線を画面に戻した。
(深了さんは苦手です)
息だけで構成された言語を、緻里は空気の震えとして感じ取った。
そしてなんだか安心した。
もちろん現実的な抵抗や不和ではあるものの、そういうものがない世界の方がいびつで皮相的な気がするからだ。
大陸の艦艇は挑戦的な距離を保ち航行する。単艦なのは、自信の表れだろうか。
だが、挑発というのは大陸に限定された話ではなく、島国の艦艇も曖昧な海の境界をこちらから侵犯する。
広い範囲のレーダーには、島国から出た戦闘機の反応も「当然ですがなにか?」とばかりに映っている。
緻里はため息を吐く。
「ため息、つきますよね」
子楽は誰にも聞こえない声でささやいた。
***
「ハイデガーから遡って、ヘーゲルを読むと、なんだか安心しますね。俺は、ですが」
藍月はコーヒーを飲みながら、緻里と他愛のない会話に入る。
「遡ってしまうのはわかるなぁ」
「存在、実存、現存在、現象」
「そうだね、嫌になってしまうよね」
緻里は毫も知ることのない哲学に関するこの談義の終着点を想像した。「存在-Cun zai-と言われると怯むよね。藍月は哲学が好きなの?」
「かじってるだけです。少尉は、なんでもお詳しいんでしょう? 俺は知ってますよ」
くつくつと二人から笑いが漏れる。
「正直、昔から大陸語にかまけて、学問をおろそかにし過ぎていた。反省してる」
「謙虚ですね。そういえば、第一都市のどのあたりに住んでいたんですか?」
「西だね。虎ノ杜」
「俺は、南の富臥でした」
富臥というのは、本当に予想通りで、緻里は藍月のまとうブルジョワ感に、何回かうなずいた。失礼にならないように、少し「曖昧」だと無知を装う。
「南の方にはあんまりいかなかったなぁ。でも、その辺りはなんとなく、お金持ちって感じがするね。当てようか、高校は「市立七寺」、大学は「冷英」……違うかな?」
「そんな風に見えます?」
藍月は微かに不快をにじませた。
「ごめん、違ったかな」
「いえ、そういう感じなのは、否定しませんけど」
どういうことだろうと、緻里は首をかしげる。
「七寺には行きたかったし、冷英にも、行きたかったっすよ」
言葉が崩れるところを見ると、本当に引け目を感じているようだった。
「高校は大したところじゃなかったですし、大学だって、普通の私学です。でも俺は頑張った。頑張ったから少尉の前で文官をやってられるんです」
その言葉遣いは初めてだった。
嬢憂や言雅のような、知が身に染みついている女の香りはよく知っていたし、落ちぶれていく自分自身を、なんとかして下から支え、世間とほどほど(と緻里自身は本当にそう思っていた)に付き合っていく、手を抜いた生き方をしているなら、それもすぐに看取することができた。
藍月は、エリート出身のエリートではなく、努力と無知を克服してのしあがってきた、叩き上げのエリートだった。
降りてきた緻里と上がってきた藍月は、人生に対するスタンスが違う。
緻里は「控えめ」であり、藍月は「貪欲」だった。
「少尉、府学ですよね」
「そうだよ。でも、第一学府には行けなかった」
「似合わないですよ。なんとなくわかります。少尉は穏やかな仮面の下に、獰猛な素顔を隠してる。第一学府にいる人はそうじゃない。屈託なく学問をやり、大人になっていく。緻里少尉は、そんなんじゃないっすよ」
藍月の言葉の意味が、緻里にはわからなかった。文脈が蛇行して、正負の表現が隣り合わせに並んでいる。
「屈託があったら、どうして第一学府にいられないんだろう?」
「やつらは負けを知らないから、屈託がないんです。そう思いませんか? 緻里少尉」
論理的にはすなわち、緻里は「負けたことがある」ということになる。それは、緻里の自己認識と微妙に乖離していた。
「人生だから、僕は負けたと思ったことはないよ。人生には勝ち負けはない」
「嘘ですよ。それは、戦うことから逃げているだけっす」
「藍月はどうして哲学をやるの? うまく負けるためじゃないの?」
「なんすかそれ? どういう意味っすか?」
「人生の起伏を俯瞰的に見るために、哲学はあるんじゃないの?」
「それは、そうかもですけど……」
緻里は次の言葉を考えた。藍月はじっと緻里を見る。
「負けたと思わないと言ってから、うまく負けるためと言うのは、あまりに矛盾した言い方だけど」
緻里は藍月の目を惹きつけた。大学中心で機識や言雅ら先輩が、緻里のことを陶冶したのと同じように、藍月をリードする。
「孤独な時間はあった?」
緻里は試みに聞く。文脈に折り目をつける。
「いつも。いつも孤独ですよ」
「孤独に意味づけするのは、常に哲学だった。病、狂気、孤独、鬱そういうものは、敗北なのかな?」
「違うっていうんですか!?」
「屈託を口に含む時に、涙が出てくるとする。涙は、敗北の証なのかな?」
「少尉は誤魔化しているだけです!」
嬢憂の顔が浮かんでくる。なんであんなに悲しそうにするのか、わかったような気がした。
「涙は価値だよ」
緻里ははにかんで言った。
「余している人のせりふです。俺は戦えば傷つくし、人を傷つける。少尉は余しているから、傷つかないし、屈辱的なまでに相手を愚弄する。侮蔑をサイレントに流し込む、っ、す、すみません。少尉、こんなつもりでは、なかったんです」
緻里は首を振った。
「まあ、一つ言えることは、僕は君を守るってことだよ。それだけは揺るがない事実だから」
警報音がした。それは遠くの海上にある敵の接近を示していた。
ゆっくりと緻里は戦闘モードに移行する。昂らないでいる方が難しかった。