二百三章《説明》
「制約の言語回路」二百三章《説明》
「陸島両国は現代を抜け出した」
その言葉は、少し楽観的に聞こえる。それでも価値ある未来への意思表明として、月雪が論文で発表した。
陸島両国の言語で書かれた、一万字ほどの論文で、一つの歴史的遺産だった。
***
ほのかに連れられて、雅舟は島国を訪れた。
結婚したことを報告しようとして。でもそれは難しいかもしれなかった。
ほのかの家族は、ほのかを死んだと思っているのだろうか。もちろん家族のアドレスは知っていたから、メッセージを送るだけでよかった。でも、ほのかにはそれができなかった。
第一都市に降りて、変わらない景色に嫌気がさす。
変わらないのは、でも景色だけで、中身はどんどん変わっていく。
ほとりと住んでいた実家は、どこかへ行っていた。マンションには違う人が住んでいて、ほのかは雅舟にホッとした顔を見せた。
それだけで泣き崩れた。
長い慟哭で、そこにあった日常に帰れるはずの希望が、潰えたような気がしたのだ。
全然等価ではない。今の幸せと、過去の日常は等価ではないけれど、それでも自分が本当の根無草になった気がした。
ほのかは、自分が涙を流すなんて思っていなかった。
全てがどうでもよくて、感情なんか飾りだと思っている身からすれば、涙なんて虚ろな文学的操作でしかない。
隣に雅舟がいるから泣いたのだろうか。雅舟に向けて、あるいは自分に向けて、説明しなくてはいけなかったのだろうか。
過去を思い返して泣いたわけではなかった。
過去が空虚だったから泣いたのでもなかった。
ただ何となく、喉から声が出て、顔がくしゃりと歪み、涙が化粧を滲ませた。
ほとりの耳にはないイヤリングが意識された。会いたいと心から思った。
「メッセージを送ればいい」
雅舟はそう言わなかった。「会いたい」と送らないのは、それが死者からのメッセージだからだ。もう彼らはほのかを荼毘に付している。
「小さな家だった」
ほのかは笑った。
「最高の双子だって言われてた。それだけなんだけど、なんか泣けてきた」
雅舟はほのかの体を寄せ、きちんと抱きしめた。
「ほとりちゃんは、元気かなぁ」
***
綺麗が夫の遼佳と子どもの美里と一緒に島国に来た。
遼佳の実家に泊まり、美里が頑張って島国の言葉で祖父母と話すのを、微笑ましく見ていた。
島国に来たのは、道綾が退役したのがきっかけだった。いつでも会えるわけじゃないからと、道綾が呼んでくれた。
道綾の娘の姫里が、美里の面倒を見る。
「姫里さんも、大陸語と島国の言葉が使えるんですね!」
「あと英語もね」
「私も英語勉強してます!」
「えらいね。陸島の架け橋だね」
「はい!」
出てきたのは故南茶だった。
「ああ、そういえば道綾は、故南に留学してたんだっけ」
「そのせいか、お茶は故南のものが好きよ」
しばらく茶を飲むだけの時間が流れた。
「あの子は、まだしばらく刑務所の中」
「天妓さん?」
「うん。頭のいい子でね。強かったし、あの子とはよく壁を隔てて話すの」
「うん」
「聞けば聞くほど聡明で、言葉はいつも物語で満ちていて、優しくて、よくもまあ面白い話を思いつくなって思うのだけど」
「うん」
「私がやるはずだったのに、全てを察して、こう、臨機応変に組み立てて。天才っていうのはあの子のことを言う。殺したのだって、初めてだったと思うのだけど、震えも戸惑いもなく、さりとて強い信念なんてものもなくて、当たり前の、普通の女の子だったのに。幸せになる、はずだったのに」
「うん」
「多くの陸島の人の命を守ったのに、私は英雄で、彼女は犯罪者で」
「うん」
「私の立場から、公式に彼女を正当化することはできない。殺すことでしか人々の目を覚ませなかったとしても、手続きを踏むべきだったと、許せることではないと、口にすることしかできなかった。私はバカだ。そんなことで彼女を汚すなんて、私は、バカだ」
「たぶん、天妓さんは、道綾のことが好きだったんだよ」
「だったらどうして。私は。私だって。私だって彼女のことが好きだった。いつも『先生、先生』って言う。情報技術が桁外れにできて、いつもしたり顔で。でも、本当は物語が好きなただの女の子だったのに。私が、彼女を牢屋に入れたんだ。私は、どうやって償えばいい。彼女の手が汚れることで、私たちの罪は贖われた。彼女を供儀として奉ったのは、私だ。あの子の、好きな男を私は知っているんだ。平和な世の中だったら、きっと結婚して。子どもを愛して。幸せに。全て私たち大人が奪ったようなものだ。『いいんですよ。というか、どうでもいいんです』って、笑うんだ。どうでもいいわけないじゃない。どうでもいいわけないのに」
「賢い子は、気が触れたふりをするのが上手いよね。気が触れたというか、無感動で、感情を持たないふりをするのがさ」
「そう。豊かな情緒が知性を育む。知性は感情によって支えられている。私はその知性が生み出すものばかりを見ていた。彼女の感情や心を、いつか助けてあげたいのに。もしかしたらもう、私が殺してしまったんだろうか。私はもう、あの子の本当の笑顔を見れないのだろうか」
「未来が見えたんだよ」
「え?」
「たぶん、ずっと、未来が見えていたんだよ。だからそれに沿って行動していたんだと思う」
「そうかもね。そうでないとあんなことはできない。一朝一夕の計画じゃなかった」
「話変わるけど、道綾、月書が言ってた。『怖かった』って」
「それは私のせりふよ」
道綾は笑って目尻の涙を拭った。
故南茶が温度を下げて、飲みやすくなっていた。




