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二章《龍》

「制約の言語回路」二章《龍》


 ポツポツと雨が降ると、思純は顔をしかめた。可愛い顔がくしゃっと歪むのに、緻里は少し愉悦を覚えた。


 雨が空間を支配し、緻里は思純の術式に侵入して、暗号の解読を進めた。複雑な術式を解読するのには二つの方法がある。一つは計算して反術式的な術式を展開する。それは多くの大陸の術を学ぶ学生が得意とすることで、演算に耐えうるだけの頭脳が必要だった。


 でも、同時多発的に術式を生成することができる処理速度の速い思純に、普通の学生は太刀打ちできない。


 もう一つの方法は、フィールドの素地を変えてしまうこと。緻里が雨を降らせ、フィールドの条件を変えることで、術式にバグを生じさせる。


「雨が降ってる、久々に」


 緻里より向こう、遠くを見つめる思純は、毛先が少しカールした肩口までの髪をすいて、制服の胸のボタンを一つ開けた。


 緻里は空間に配置された思純の術式に、綻びを生じさしめて、「雨が滴る好い女」に侵入を試みた。それは緻里の人生で最悪の選択であり、好奇心が猫を殺すという諺の好例でもあった。


***


 複雑なバグが思純の術式に生じて、戦況は緻里に傾いたかに思えた。


「雨のいいところを教えてくれる?」


「湿った土の香りがするところ」


「女の香りは?」


「そういうこともあるかもしれない」


「重い。私そんなに体重ないのに」


「水に濡れていればそういうこともある」


「いやだわ。龍鹿くんの大鹿が、雨を嫌っている……傘を、刺さなくては」


「傘は差すものじゃない?」


「いいえ、間違っていないの」


 ふわっと思純の周りに結界が張られた。その術式自体は単純で誰もが使えるもの。雨を弾くのには好都合。


 でも侵食する雨滴が結界を綻ばせる。


「構築するのは鉄。しなやかな鉄。覆うのは布。何物も通さない」


 徐々に視覚化される「物質」に、緻里は目を見張った。


 紅い点が空間にポツポツと現れた。それを幾何的に繋げると、先端の尖った傘が目に見えるまでに生成される。だがそれは単なる「物質」ではなかった。雨を弾く「傘」は術式的な暗号を一切具備していなかった。緻里はそれで初めて、思純が第二の主席を張る理由を理解した。才能であり天賦、異能であり孤独。自分と一緒だと緻里は思った。


 上から見ると思純の胸の谷間が見える。こんな時に何を考えているのかと、脳裏で自分にダメ出ししたが、そういう気配は思純にも伝わっているらしい。よそ見をして手で胸に空気を送る。


「別にそんなに大きくない」


 緻里は日本語でつぶやいた。


 傘を肩にかけて、思純の準備は整った。紅い傘。


 雨はさあさあと降り続ける。大陸の北は雨が降らない。空気と空気の繋ぎ目が微妙に噛み合わないのは、久しぶりの雨に空間が戸惑っているのかもしれない。傘の内の美人は傘の中の空間の主導権を取り戻す。でも全体のフィールドはまだ緻里の支配下にある。


 空の雲は暗く立ち込めて、校舎の中の生徒が声を上げて驚くのが聞こえてくる。


「階段が必要みたい。あなたのところへ行ける、階段が」


 横に広い空間に浮かぶ足場が構築される。


 傘の内の美人=思純は傘を持ちながらコツコツとかかとで音を鳴らし、緻里の方へ歩く。緻里が危険を察知して身を動かそうとした時、すごいスピードで思純の脚が飛んできた。意識が何が起こったかを認識するまで、緻里は飛ばされた。


 思純がスカートを整える。


「すごい、功夫-Gong fu-だね」


「大陸生まれなもので」


 階段が自動生成され、思純が追いかけてくる。


「パンチラは気にしない?」


「見えた?」


「いや」


 暴風が思純の横を通り過ぎて、思純は陰圧で引っ張られた。階段でよろけて、カツンとかかとが鳴る。


「緻里くん。本気を出してくれない?」


 緻里は笑った。空気が摩擦して、音が鳴る。雷の音。母から受け継いだ、天候変化の能力の真髄だった。


「むしむしする、まるで温暖湿潤な島国にいるみたい」


 緻里には違和感があった。湿度が高まるにはもう少し時間が必要だと思ったからだ。


 天空では低気圧が渦巻き、上昇気流が雨を促した。龍鹿の大鹿が鳴いた。


 雷が上空を横断し、ボルテージはどんどん高まっていく。


「いい?」


「もちろんよ、緻里くん」


 一瞬で丸焦げになる威力。落雷した。


 空間の色が変わり点滅する。白化した部分が暗転して真っ黒になる。


 目が馴染むまでに時間がかかる。緻里は慣れていたから何が起きたかわかった。


 傘が避雷針になって、思純は衝撃から吹き飛ばされた。階段を数段落ちて、放心していた。


 バチバチと思純の傘が燃えている。


「私がやっていることはまるでおもちゃ作りみたいね」


「単純化すればね」


 スカートが広がり、太ももがわずかに覗く。制服の端が黒くなり、煤がまぶされていた。


「参ったわ、もうやることが一つしかないみたい」


 日和見的な口調で、緩慢に動くものだから、緻里はつい気を緩めてしまった。


「一つって?」


 ゆっくりと思純は立ち上がり、埃を払って髪を後ろにまとめた。薄くて大きな耳があらわになり、華奢な首筋に光が当たった。ほのかに白く光る。


「空を飛びたいって思ってたの」


「うん」


「あなたにとっては当たり前の景色なんでしょうけど」


 遠くで咆哮がした。それは緻里にしか感じられない、微細な空気の振動で、物体が刻々と近づいてくる気配だった。


 正確にいえばそれは物体ではなかった。先程までは「影」だったそれは「実体」を伴って緻里の前に顕現した。龍鹿の龍だった。


「もしよければ、あなたが『雨降る島国』に帰る前に、この『乾いた大陸』を一緒に見物していくのはどうかなって」


「思純さんと?」


「そう。私と」


「この龍に乗って?」


「龍鹿の龍でしょ? 私の自家用車みたいなものよ。龍鹿は私の子分だから」


 緻里が龍鹿を見ると、龍鹿は穏便な笑顔を浮かべた。


 龍には一具だけ鞍がついていた。


 思純は龍に飛び乗ると鞍にまたがって腰を固定した。


「どうぞ?」


 思純は体の前に緻里を指示した。


 緻里がまたがると、思純は緻里を後ろから抱きしめた。


「強い男は好きよ」


「僕なんてほどほどだよ」


「気をつけて行ってきてください。先生には適当に言っておきますよ」


 龍鹿の大鹿が透き通った声で鳴くと、龍は霧に隠していた長い尻尾を現実化させ、天高く飛翔して行った。


 龍の通り道の雲は消え、陽光が切り込んで、光が回廊を作った。

 

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