百九十八章《精神汚染》
「制約の言語回路」百九十八章《精神汚染》
精神の世界において、名前はIPアドレスみたいなものだ。特定されることは危険につながる。
雷礼も軍に入ってからは身分を秘匿するようになった。島国の情報捜査力は、昔からゴミだと有名だが、たまに有能な情報士官がいると、こんなふうにバラされてしまう。
検索というちゃちな方法ではない。天妓は直接電子情報にアクセスできる。それは、天からの祝福だった。
鍵つきの部屋への入り方は、三通りある。
一つはこじ開ける。一つは中から開けてもらう。
そして一つは、鍵を作る、である。
いくつかの多要素認証も、例えばフェイスIDであれば、顔が知られている管理者の顔を作成して突破する。
パスワードであっても天妓に「なんとなくわかる」ものでしかない。
目をつぶってパスワードの匂いを嗅ぎ、思い浮かぶパスワードを打ち込むだけで、鍵は開く。
ちょっとした祝福。直感を導く異能である。
***
「一部屋、借りてもいいですか?」
緑鳴は賀王少将に聞いた。
「乗っ取れるのか?」
「向こうが方言で操作していたなら、難しいでしょうね。でもせいぜい機能停止させることくらいはできると思います」
天妓が指で部屋を指した。
カチリ。扉が閉まる。
「緋綬さん、私たちは、机器人のモニタリングでもしますか」
「天妓さん、大陸語上手いですね」
「軍人たるもの、敵国の言葉を知らないでいられますか? ねえ少将」
若者のコミュニケーションに少将は閉口する。でもこの感じがないと、戦いには勝てない。
***
「こんにちは、雷礼さん」
雷礼はずきりと背中を刺された気がした。
ハッと振り返る。後ろには誰もいない。
ヘッドホンをして、もう一度机器人の操作に戻る。疲れているのだろう。そう思った。
もう七百体くらいに減ったとはいえ、まだまだ指揮棒を振り続けないといけない。
「こんばんは? かしら」
今度は女の声だった。明瞭に聴こえる。
汗が滲む。背中がずきずきと鳴る。軋む音がする。
この声に答えてはいけないと、理性が告げる。しかしそれが、緑鳴の精神汚染のとっかかりだった。
「別に何にも答えなくていいですよ? ただお話をしに来ただけです。私が誰か、わからないんですか?」
まるで振り込め詐欺の手口。でもその声の主を想起せずにはいられない。いくつかの選択肢が頭の中で映像として浮かぶ。そして名前が表示される。
「離路ですよ」
被せてくる。思い出を騙る。「あなたが捨てた、市井の女です」
「今仕事をしているんだ。なんでもいい。今はッ」
「可哀想に。好きな人のことはおいて、人殺しに励むんですね」
「お前こそ、私を止めるということは、大陸の進軍を止めるということだ。どうしてそんなことをする?」
「人殺しの仕事に矜持があるんですね」
「お前は! 私の何がわかる」
***
「机器人の動きが少し緩慢になりましたなぁ、天妓はん」
「緋綬さん、楽しそうですね」
「緑はんの精神汚染って、本当にキツいんですよ」
「なかなか発揮する場所がないんじゃないですか?」
「こういう時でもないとねえ。ふはは。あ、凛咲さん休ませてあげましょうよ。あの人が死んだら戦線崩壊です」
***
集中力が切れかけたところで受けた初めての精神攻撃に、雷礼は極めて消耗した。声がもし島国の側の攻撃だったとしても、どうして知りうるはずのない思い出から引用される? 幻覚や幻聴だと思っていたのに、どこからが本当で、どこからが本当ではないのか、理性では追いきれなくなりつつあった。
仕事をしなければという思いや責任感も、緑鳴に利用される。焦燥感は伝わり、想念の中の動きは、言葉から徐々にイメージになっていき、絶対に島国側が知らないことを並べられるから、なおのこと自分に疑心暗鬼になる。
なんでこんな時に。
ちらちらと後ろを見ながら。背中がずきずきする。
意識の大部分が、緑鳴によって侵食されているのに、もう気づけない。
思い出の情報飽和攻撃に、人間の脳は耐えられない。そしてトラウマが引きずり出される。
「部屋を出たら?」
緑鳴が扮する離路は言った。
「そんな、そんなことッ」
「できるわけない? 私はあなたを愛している」
「この作戦の成否は私にかかっている」
「そうよね。ごめんなさい」
離路は言わなかった。決して「あなたが戦うのは、国のためでもなんでもなく、ただ上官に怒られたくないからだものね」とは、決して。
意識はもう完全に占拠され、さっきまで動かしていた机器人の掌握権限は、緑鳴に移った。
緑は解析した精神派のパターンを読み取り、自分の脳に、架空の雷礼の精神波を複製した。
それは雷礼本人の脳と共振し、雷礼の認識を欺いた。
雷礼には作戦を遂行できているイメージを見せ続け、机器人はすでに反転し、気づいた時には、常陸の大陸側の基地は破壊されていた。
イージス艦瀋陽の一部屋で、首をかきむしって廃人となった雷礼は、意識が混濁する中、処刑された。カタカタカラカラと、糸が切れたように机器人は崩れ、そこでプログラムされた通り自爆した。




