百九十六章《薄明》
「制約の言語回路」百九十六章《薄明》
「お母さん、帰ってきた」
「寝ているから、静かにするんだよ」
遼佳は息子の口に手を当てて、夫婦の寝室から遠ざけた。
「お母さんの同僚が、送ってくれたんだ」
「お礼しなきゃね!」
丸一日寝ていたのか、綺麗が起きたのは翌日の朝4時で、窓の外には薄明、わずかに輪郭を持つ夫の顔を見て自分が最初に浮かんだのが「仕事」だったことを強く恥じた。夫は妻が家に帰ったのを安心したように、深く眠り込んでいた。
リビングテーブルには、夫の作ったおにぎりと、ほのかへ宛てた息子の手紙が置いてあった。
ほのかが自分を家に連れてくれたのは、全く記憶になかった。でもそれは、涙を催すほどの配慮であり、ほのかの行動力と優しさの結晶だった。ほのかは本質的にはそんなに優しい人間ではない。だからもしかしたら配慮というよりは思いつきだったのかもしれない。
薄明は綺麗の体に染み込んでいった。
おにぎりを食べ、シャワーを浴びた。
息子の部屋の扉を少し開け、様子を窺った。
眠っている。
綺麗は息子を起こして抱きしめてから行きたかった。
でもそんなぬるいことを自分に許すことができず、まるで悲劇に酔っているみたいになるのも嫌で、あさぼらけとともに職場に向かった。息子を起こさなかったことをその後ですごく後悔した。
ため息をつく。起こすのも悪いな、なんて、二人は間違いなく否定するだろうに。
思考の一貫性を保つために、意固地に自分の言行に固執するのは、幼稚な考えだったなと、反省する。
少し無理をしても、やりたいことをやり、話したい人と話すべきだった。
ポケットに入れた息子のほのかへの手紙は、夫が教えた島国の言葉で書いてあった。筆致は自分の子だとわかる。美しい大陸譲りの書体。なのに、ひらがなを漢字より小さく書くというちょっとしたテクニックを忠実に実行していて、字のバランスがいい。
朝、職場に出ると、ほのかが机に突っ伏して寝ていた。化粧を落としていたから、最初ほのかとわからなかった。後でそう言うと、ほのかはかなりご立腹だった。
「ひどすぎます、ひどすぎる。私だって寝る時くらい化粧は落とします」
「化粧してなくても綺麗だよ」
「そんな凡庸なおためごかし、鈍感の域を超えて害悪の水準なんですが」
「ごめんごめん。これ、息子がほのかにって」
「なんですか?」
「怒んないでよ。この前私を担いでくれたお礼だって」
「お礼? どうも、受け取っておきます。っと、これ」
「ん?」
「ふふ、いい字ですね」
***
綺麗は軍から呼ばれることが多くなった。
軍が衛星その他から入手した情報を確認する。隣にほのかがいて、首都近辺の情報を照合する。
「核でも落とすの?」
綺麗は軍の高級将官に聞いた。
「それなら、全土に満遍なく落として、後顧の憂いを断つさ」
「正直さん」
「お前が怒るだろ? もうゲーム買えないー、って」
「友達もいるしね」
「俺もそうだ」
「太平洋から上陸するのに、どの地点がいいかを考えているの?」
「ああ、それが?」
「それは非常にいい考えね」
「どういう点で?」
「脊梁山脈を越えることはできない。ただ」
「ただ? なんだ?」
「太平洋のどこを拠点にするか、よね。空母なんてすぐ撃沈されるわ」
「お前、軍が何隻空母を持っているか知ってるか?」
「八隻よね」
「非公式には十二隻だ」
綺麗は渋面を作って顔を引いた。
「そんなことだから、味方に信用されないのよ。どこに隠しているの?」
「ロシアにある」
「へえ。それが非公式ってことね。なーるほど。イージス艦はちなみに十隻と聞いているけど?」
「それは変わらない」
「太平洋か。ほのか、何か言いたいことがあるみたいね」
「第一都市や海都の防空網は、とても堅牢です。AIに操縦させるにしても、飛行機がもったいない。上陸地点は常陸がいいかと」
「常陸?」
「ええ。島国は陸軍勢力が弱めです。一方空海勢力は世界でも三指に入ります。前の戦争で、よっぽど懲りたのか、海都の改造度はご存知の通りです。でも、上陸すれば、雪国を短期で落とした大陸軍が首都を落とせないと私は思いません」
「腹の中に入ってしまえば、向こうも重装火器を使えない」
綺麗はほのかに受けて言った。
「それは大陸軍が人民の盾を使うということか?」
「あんたらは昔からそうでしょ?」
「口を慎め綺麗」
「キレんなよ、いつも勝手にキレて事を複雑にする癖やめろよな」
二人は笑顔で応酬していた。
「お二人は、お知り合いなんですか?」
「綺麗の顔が広いだけだ」
「火敬は私のこと好きなんだよね」
「そういう高校生みたいなジャブを、その歳にもなってできるのは、いささか」
綺麗が火敬大佐に殴りかかろうとするのを、ほのかはすんでのところで止めた。
「歳は関係ないでしょぉー!??」




