百九十三章《法律》
「制約の言語回路」百九十三章《法律》
島国の領袖の発言がきっかけで引き起こされた軍事衝突を、幾許かコントロールできているのは、海上で睨み合っている月書と道綾のおかげだった。
月書も道綾と戦う空気ではなく、もちろんその戦闘区域の現場責任者は、彼女たち両名だった。
海戦や航空戦になるのは、どうしても避けたかった。通常兵器の破壊力は、この時代では破壊的で、すぐに全面戦争になってしまう。
彼女らの責務は、如何に中央の「指令」を読み替え、膠着状態を維持し続けるかだ。
偉大な魔法使いである月書は、少なくとも部隊を従えるだけの信頼と威厳があった。
それに、戦争は軍人の死の確率を簡単に上げる。
月書は部隊の司令として、子飼の軍人を死に追いやりたくはなかった。
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衝突が意味するのは、軍人だけの死ではない。
お互いの戦闘力の応酬は、確実に自国民を危険に晒す。相手国の人命を勘定に入れないことはすなわち、自国民を危険に晒すことにつながる。
一度「戦争」になってしまったら、取り返しがつかないことは、軍人が一番よく知っている。
世論は、軍人が死ぬことを「殉職」と呼び、過剰に賛美する。戦争を深化させるのはいつも無責任なメディアであり、生と死の境界ががわからず、殺人と殉死を記号化する、低廉なナショナリズムだ。
リアリズムをまとっているのは、政治家ではなく、現場で戦う軍人であることは議論を俟たない。
道綾と月書は、対峙している。
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月書の軍隊も、道綾の部下も、前の戦争を経験した者は少ない。だからこそ、両名への信頼は強い。
月書は多くを語らない寡黙なリーダーだ。
道綾は饒舌だが、今は沈黙を貫いている。
結局島国の考える「自衛権」が拡大的に解釈されることを、島国の市民は防ぐことができなかった。
復讐心で、結果的にむしろ多くの危険が自国民の上に降りかかってくることを、想像できなかったのだ。
想像力は、記号化が進んだ言論の世界では、有効に行使されず、主観的な好悪の感情で政策が進み、互いの国でそれを準備した法律が、状況を悪化させた。
軍が膠着しているのは「せめて、国内でルーツが相手国にある人間の人権を保障するために、時間を稼ぐ」という、極めて重要な目的があった。それは島国の外交委員会も、大陸の外交部も、その実務レベルの責任者がなんとかして達成したい、最低ラインの措置だった。
月雪をはじめとする知大陸派と道綾は、その点で意見を一致させていた。ジェノサイドの可能性すら、考慮しないわけにはいかなかった。戦争の歴史を知っている者は、世論がどこまでも残虐になれることを知っている。
一週間にわたる両国間の時間稼ぎのおかげで、陽成は月雪の協力を得て、航空機を大量にチャーターし、自国民の避難を進めた。まるでダンケルクであったような蜘蛛の子が散る速さだった。
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「ほのか?」
そう言いかけて、綺麗は口を押さえた。
ほのかの双子の姉妹、ほとりが、向こう側の事務担当者として同席していた。
ほとりは島国での大陸邦人の避難と同様に、帰る機体に島国の邦人を乗せる手筈を整えた。
ほとりはほのかと同じように美しく、ほのかと同じように人に無関心そうだった。
でもその仕事ぶりは、高級官僚としての自負の絡みもあり、熱心であるように見えた。
評価を気にしているのか、それとも本当に国民のことを考えているのかは、綺麗には判別できなかった。
島国に家族のある人は、ある人は引き裂かれ、ある人は堪え、ある人は沈黙して、鉄の塊に乗り、あるいは乗らなかった。
ルーツが複数ある人は、選択できない選択を迫られた。
事はそう単純ではなく、世論の多数派が考えている敵味方の理論は、極めて高いレベルで倫理性を失していた。
だがそれは別に複雑なことではない。少し考えればわかることだ。でも自分の好悪の説明をつけるために、彼らは少数派の存在を「忘れる」ことにした。
その人道的な避難は、一定の期間を区切ることに成功したが、期間を区切ることで、開戦のタイマーにもなった。刻一刻と迫る開戦につけられた時限措置は、両軍の緊張を高めた。
ここにいて、どちらの軍も手を出さなかったのは、統率と緊張の合わせ技で、結果的な幸運に過ぎなかった。「毅然に、かつ冷静に」という島国の政治家の発言は、彼らの命を天秤にかけることで、ようやく意味をなす。
総理大臣は戦争には行かないのだ。
世論と、それが支える総理大臣は思う。
「最低限の人道的な措置を採ったのだから、この後はいくら殺しても怒られない」と。
戦争を肯定する法律が議会を通ったら、戦争をしてもいいと、本気で思っている。法律に書いてあることが殺人の肯定だとしても、そんなことどうでもいいのだ。




