十九章《夏流》
「制約の言語回路」十九章《夏流》
少尉への任官とともに、緻里は第一都市に戻った。
武官としての最初の仕事は欧州での国際会議への出席で、第一学府から、欧米へ留学した面々を含めると、緻里は末席に属していた。
外交部、官僚機構の局長が、緻里を呼んだ。全く関わりがないその局長は、どうして自分を知ったのか、聞く暇もないくらい忙しい人だったから、疑問は疑問として置き去りにされた。
国際会議に出席するのは、もちろん欧米と島国だけではなかった。大陸と、砂漠の国、湖の国、山岳と台地の国があった。
戦争中の大陸と島国は、議場で視線を交わすこともない。
局長が会議の席に座り、席のない緻里はロビーで会議の終了を待っていた。
ロビーの対面に大陸の武官が控えている。
チラチラと緻里に視線をやりながら、唇を引き結ぶ。
大陸の外交部が演説をすると、拍手が鳴った。同盟関係にある山岳と台地の国からの熱烈な拍手だった。
「次はお前の国だな」
「どこかで会ったことあるのかな?」
お互いに独り言を呟く。どちらも耳はいいらしい。
「どこかで写真を見た。空を飛べるとはカッコイイことだ」
「六歳の少年にとっては理想かもしれない」
かっかと笑うと、同じくハブられている大陸の武官は、絨毯を踏み締めてこちらに寄ってきた。
「雷鳴か。世寂に殺されたと聞いていたが」
「命ばかりは助かったよ」
「世寂は穏健だからな」
「そうだね。とても紳士的で、でも次は負けない」
「雷鳴、お前じゃ世寂には絶対勝てない」
緻里は沈黙した。
それは、肯定とは少し違った。視線を外し、憮然として、自分の見た「光」の映像を反芻する。
「確かに、今のままではね」
「今のままでは?」
「別に勝つ想像ができるわけじゃないけど、僕は今のままではないから。じきに勝つよ」
「それはどういう意味だ?」
「わからない?」
「今勝てなくて、いつ勝てるようになるんだ?」
「一週間後とは言えないけど。いつか」
「よくわからん。聞こえるか? 島国の代表が演説をしている。美しい英語だが、大陸語で演説するべきと思わんかねぇ」
「激しく同意するよ。そちらの方が大陸と仲良くできる」
大陸の武官は虚をつかれ、まばたきをした。不可解なレトリック。島国の人間で、軍人をしている緻里から発された言葉は、一級の皮肉であり、しかし本心から言われたのと同様の声の調子だった。「だから」と緻里は加えた。「だから、大陸の君も島国の言葉を学ぶといい。島国の柔らかくて優しい女の子と仲良くできるのは、かなりの利点だ。名前は?」
「夏流」
「なつる、と島国では読むよ。よろしく『かりゅう』」
パラパラと会場では拍手がなった。
会議は定刻に終わり、夏流も緻里も職務に戻った。
夏流はメガネをかけ、違う顔で大陸の集団に紛れた。
緻里は警護の面々と事務的な会話をして、ホテルまで局長ら上役をお連れした。
欧州での国際会議で繰り広げられる未習の言語に、緻里は嫌気がさす。
島国のチームの多くが英語をはじめ、欧州の言語に精通していた。
まだ打ち解けないチームのメンバーとは、食事の席でもうまく話せなかった。
彼らは第一都市で多くの時間を過ごし、欧米へと留学し、自信に満ちた笑顔と、流暢な英語を身につける。
食事を終えて、局長に呼ばれた。
なんだろう。急ぎホテルのロビーまで出向く。
大陸の外交部次長と、英語で話していた。
「晚上好-Wan shang hao-」
向こうの次長は緻里に声をかけた。
「こんばんは。宇飛次長」
「お名前と階級を教えていただける?」
高い声。女性。言葉を暗記することにかけては、全世界で最も優れていると言われる大陸の官僚。
「緻里。少尉です」
威圧される。うまく二の句が継げない。
「さっき、由南局長にお声がけいただいたの。私英語はとんとダメで。まだ島国の言葉の方がわかるのですけど、緻里少尉が大陸語を話せると聞いて、嬉しくなってお呼びいただいたの。お互いの平和のためにお互いが相手の言語を学ぶ。ドナルド・キーンだって最初はアメリカの情報将校だった。日本文学の発展に寄与したのは、戦後の話よね」
石のように硬い笑顔だった。笑顔を作ることに慣れていないのではなく、笑顔というものを自分の表情として認識していないのだ。
報道陣が遠巻きに由南局長と宇飛次長を囲む。
報道として出てくるのは、「遺憾」とか「懸念」とかなのだろうが、握手はなくとも二人が話している映像は価値がある。
戦争は長期化する。どうすれば収束するのか誰もわからない。でも、「戦後」という言葉を使う宇飛次長は、その先のことが見えているのかもしれない。
即席の通訳として、由南局長の言葉を翻訳する。大陸と島国の通信社が、映像を撮る。
島国では緻里の部分はカットされるだろうが、大陸ではむしろ緻里の音声を使うかもしれない。
ネクタイを外した由南局長と、ジャケットをかたわらに持つ宇飛次長は、終始笑顔だった。
ちょっとした立ち話の間も、海を挟んだ大国同士のつば競り合いは続いていたし、何かが好転しようとしているわけでもなかった。
緻里は夏流と戦場で再開しないことを祈ったし、由南局長と宇飛次長の個人的な信頼関係が、平和とはいかなくとも、捕虜の円滑な交換や、外交的雪解けの一歩になることを願った。
***
帰国した緻里は、入隊して初めての軍事作戦に参加することになった。
経験を積んだ下士官の水軸と顔を合わせる。
「『ねじまき鳥クロニクル』みたいだ」
「その本は読んだことがありません。でも、私たちはノモンハンに行くわけではありません」
目の周りのクマと大柄な体躯。口元は引き締めてあるが、笑みを浮かべているようにも見える。
「緻里少尉は大学をお出になられた」
「肯定」
「大陸語に堪能であるとか」
「留学経験があるだけ」
「大陸の人間を知っている」
「そういうことになる」
「敵を殺すことを躊躇われますか?」
「躊躇わない」
「こういう質問を重ねるのは、いささか不躾と存じますが、なぜ躊躇わないのですか? 敵の言っていることがわかるのでしょう?」
「わかるのは一部のひととなりだけだ。今は水軸軍曹が僕を守る。僕は前衛より後衛にいることの方が多いだろう。僕の前にいる軍曹を裏切ることはしたくない」
どこに向けているのかわからない水軸の視線が一瞬緻里の視線と交錯した。
「私は銃を扱うしか能がありません」
水軸はこぼした。
目のクマが水軸の表情をぼやけさせた。
作戦は藤宮島の防衛だった。
藤宮島は大陸と島国の間にある。小さな島だが、今は軍事基地となっている。大きな船は寄港できないため、補給は細い線をつなげる必要があり、大陸が周囲の海域を封鎖する手段に訴えることもある。
防空圏が展開されているわけではなく、藤宮島はいつも不安定だった。
藤宮島にいるのはわずか十人ほどであり、尉官は隊長として島に住むことになる。
一対一の作戦というより、上陸を目論む大陸側の戦力を如何に阻むかというのが目下の目標だった。
戦術的には大したことのない場所だとみなされていることもあり、両国の意地の「見せ所」だった。