十八章《最強》
「制約の言語回路」十八章《最強》
目を押さえて苦しむ緻里の手を、嬢憂は握る。ほのかに嬢憂の手が柔らかく発光する。
手の「温かみ」では説明がつかない、嬢憂の治癒の異能のことを、緻里は嬢憂から聞いたことがなかった。
「大丈夫。私が絶対助けるから」
「なんだそれ、主人公かよ」
緻里の口から出た軽口で、無付の他、医務室に詰めている人から安堵の息が漏れた。
緻里の粗雑な言葉遣いは、嬢憂の前じゃないと聞けない。レア・シチュエーションだった。
目を押さえる手に手を重ねて、そっと目を開かせる。
「視神経が焼かれてる」
そう言いながら、目に手をかざす。
瞳孔が開いた目から涙がこぼれる。
「見える?」
「ぼんやりと」
「時間が経つと、もっと見えるはず。『応急処置』はしたから、あとは眼科に行ってね。あと肩。焼けてるね」
「蒸発した」
「神経組織だけ、なんとかしてみる」
「なんでもできるんだな」
「まあね」
緻里の体に触れている間、嬢憂は真剣そのものだった。
大学中心はその地表上層部の装備の損壊具合を把握するためにどこもドタバタと動いていた。ドタバタという間の抜けた感じ。嬢憂を除いて誰も真剣ではなかった。
ガヤガヤと地下の階層では、緻里が撃墜さらたことを噂していた。嬢憂の登場のことと絡めて、「いい気味だ」という風潮。女の前で良い格好ができないのは、なんとも島国らしいストーリーだった。
嬢憂の端末が着信を伝えた。
片手でスピーカーをオンにした。
「はぃ」
「ニュースで、海都が爆撃を受けたって、嬢憂さん、いまはどこに?」
「友達のところ。心配しないでください、綺築さん、私は大丈夫です。それでは」
一方的に切るくらいなら、出なければいいのに。
「彼氏?」
「まあ、そんなとこ」
また着信があった。それに嬢憂は出なかった。
赤黒く壊死していた皮膚組織は、嬢憂の「奇跡」によって血色を取り戻す。
「ふう、また頑張ってね」
コツコツと嬢憂の革靴が二回音を鳴らす。
(まだ全然戻ってない、あの無敵だった緻里の気配の欠片もない、惨めだと思うのはわたしだけなんだろうな、こんな弱った緻里を担ぎ出すんだから、知ってる? 府月の同級生はあなたよりよっぽどデキるの、大学中心じゃそれを知ることも、恐らくできないんでしょうね)
「どうした? 見つめられると何かあったのかと思うけど」
「弱くなったね」
緻里は斜を向いて笑みから息を吐いた。
「どうして笑うの? 私、軽蔑して言ってるの」
「最強がいいのか?」
「そんなの、当たり前じゃない」
「最強の上が出て来たら、それに乗り換えるのか」
「それはっ、そういうことじゃ、ないけど。でも、でもでもでも、緻里は私の中では最強だったのに、どうして」
嬢憂は目を潤ませて涙をこぼした。「軽蔑して」という言葉は、過去への敬意を過大に膨らませ、誇張した表現だった。
「どうして……、こんなふうに私の手当てを受けて、にへらと笑っていられるのよ。緻里は孤高だったのに、どうして私のことを受け入れるの? 変わった? 優しくなった? 丸くなった? 単に弱くなっただけでしょぉ?」
「負けるのも悪くないな。嬢憂の涙が見られるんだから。滅多にないね」
「ふざけてる?」
「まあ、そのことに関しては、あんまり深刻に考えていない。もう嬢憂は遠くに行ったものだと考えていたから」
「私が遠くなら、烏城は宇宙にいる」
「烏城ね、懐かしい。あんまり話さなかったけど、あいつこそ府月では孤高の名を欲しいままにしていた」
「黒紗だって第一学府に上り詰めた」
烏城も黒紗も府学の同級生だった。「焦らない? なんにも知らないのね」
「もうどうでもいいかな、嬢憂には悪いけど、僕はここでのびのびやるよ」
「緻里、わかってるの? 私がいなければ目は治らなかったし、片腕は壊死していたかもしれないのよ?」
「運が良かった。ありがとう」
「悔しいよ、腑抜けて別人になったあなたを見るのは、悔しくて……ひぐっ、ううぁ」
ポタポタと落涙する。涙滴が床で跳ね、パシャッと広がる。
緻里が泣けないから、代わりに泣いてくれたのだ。負けたのは弱いからだ。かつて強かったのだと言っても、結果は覆せない。
昔よく、風を切ったものだった。ああ、思い出した。嬢憂とよく空を飛んだのだ。
ぼんやりとした視界で、嬢憂を見つめる。
「笑うな。なんでニコニコしているの? 私はぁ、あああああ……、もういい。さよなら」
扉を開けて部屋を出ると、バタンと閉めて嬢憂は消えた。
「無付、送ってやってくれ……」
「先輩が追いかけることを具申いたします」
「無茶を……」
「「「具申いたします」」」
「は、い、……」
周囲の声に押されて、病衣のままバタバタと追いかけた。
***
海都の街はしんとしていた。
「はぁ、緻里のせいで迷った」
「それは申し訳ない」
「どうしてここにいるの?」
「せめてホテルまでは送ろうと」
「そんな体で私の相手ができるの?」
「嬢憂とまで殺し合いを演じたくはない」
「もういい、なんも話さないで。だけどそばにいてくれればいいから。こんな気持ちになるの苦しい。でも、いいように捉えるなら、中身がある。緻里は画中の存在じゃないってこと。弱さも、可愛いといえばそうなのかもね。ねえ、一緒に飛んでくれる?」
海都と要塞の大学中心は沈黙し、街路の明かりもいつもよりずいぶんと弱かった。
緻里と嬢憂はどんどん上昇し、雲を抜け、星空の天空を眺めた。
月は少し欠けて、でも丸く、蒼白く光っていた。
上空の風は強く冷たかった。
雲が下で雨を降らせていた。雨粒の擦れる音がした。
「あなたが降らせてるの?」
「いや、自然な雨だよ」
「そう。敗者に対する慈雨なのかもね」
「悔しいな」
「なによ。負けたら悔しいのは当たり前でしょ? 悟った顔して、なに?」
「悔しいなぁ」
「さっき私が泣いたのは、緻里が悔しがらないのが悔しくて、だって緻里は、……っ」
嬢憂は緻里の指輪が、月明かりを反射するのを見て、でもその指輪に言及することはできなかった。
遠くで咆哮があった。雷雲の訪れで、爆撃された要塞は焦げた臭いを発しながら、雷雨に浸されていた。
着信があって、嬢憂は端末を取った。
「ええ、綺築さん、じきに西都へ帰ります。とても大事な友達と会うことができましたし。なんということはありません、シールドを破った爆撃でしたから、綺築さんの研究で、戦況を覆してください。応援しています。ええ、おやすみなさい」
緻里が嬢憂の電話の相手を気にかけていないことがわかるから、嬢憂は苦しかった。恋愛でも友情でも、無関心ほど応えるものはない。
ゴロゴロと雷が鳴る。
切り込みを入れるように、雲に対して斜めに風を吹かせ、緻里は嬢憂をホテル前へ下ろした。
「緻里、……また」
「また。ありがとう、嬢憂」
「負けないで」
「うん、ありがとう」
風で大雨を弾き、緻里は帰路についた。