十七章《色》
「制約の言語回路」十七章《色》
無付はおとなしめの小柄な男の子だった。
緻里の聞いたことのない土地の出身。能力的に上位クラスに所属しているよしみで、緻里はよく声をかけていた。
歌を歌う。
最初自己紹介された時は、なんじゃそれ? と思った。みんな思った。
あと付け足すと、耳もいい。
それが? と同学は聞き返す。
その歌を聴いたものは、立っていられなかった。
音が骨にまで響き、膝を屈する。
恐怖に取り憑かれ、あるいは涙する。
物理的な音波と精神侵食的な音楽が彼の中にあった。
着ている服はいつも洒落ていて、その名前も聞いたことのない田舎では、さぞやいい身分だったのだろうと推測される。
苗字のなくなった島国では、貴族制なんかは存在しないが、それでも「血の濃い」家系は存在するし、「歌」の歌詞(記憶できないほど壮絶な音楽)は、代々伝えられる歌舞伎みたいなものなんだろう。
「表に出てくるものでは、ないのですけど」
請われて夕焼けに染まる雲まで連れ立った時、無付が寂しそうに言うのを聞いた。
それは、緻里が雷を宿しているのと少し重なった。
無付は緻里のバディとなり、何回かの航空演習で良い成績を残した。
無付自身は飛ぶことができないから、背中にはパラシュートを背負っている。緻里の風に乗るのは少し手間取ったが、今ではいいコンビとして上位クラスのお手本になっていた。
緻里が気流を操作することで、無付の歌を遠くまで届けられた。
その無付が緻里と嬢憂に声をかけた。「音楽的」な声だった。人間心理にも熟知している無付が「そういう」声を出すのは、特殊なことに限られていた。
《すみません。先輩。お楽しみの最中に割って入ってしまって》
緻里は嬢憂を見た。嬢憂は軽く首を振る。
「問題ないよ」と言っていた。
焼肉は佳境に差しかかっていたから、嬢憂は身支度をしてお会計を促した。緻里は財布から二分の一の代金を出し、「先に出てる。ホテルまでは送るから」と言って退出しようとした。
「ホテルまで送る?」
「他意はない」
「私は緻里の寮でもいいよ」
「そんな度胸はない」
(チッ、この童貞)
「なんか言ったか?」
「聞こえまして?」
無付は笑みを殺した。
緻里はメモを取って簡単な地図と寮の部屋の暗証番号を書くと、折って緻里に渡した。
「冷蔵庫開けてもいいから」
「お風呂に入って待ってるね」
緻里は目にバツマークを書いて、コートを着ると無付とともに外に出た。
「面白い方ですね」
「高校の同級生。いつもあんな感じだ」
「とても、色っぽくて」
「困るよな」
無付はくすりと笑った。
「すみません、先輩。召集でなければお邪魔はしませんでした」
「逆に助かったとも言える」
「羨ましいです。あんな美人が寮で待ってるなんて」
「で、どうして? こんな日没近くになんて」
「敵空母の位置はまだ遠いですが、十分に領海を侵犯しています」
「なんでわざわざ海都に来るんだ」
「先輩、少尉になられるのではなかったですか? 分析するのは先輩の仕事です。でも、付け加えて言うなら、大陸の都市にミサイルを飛ばしているのは、第一都市でも西都でもなく、私たちの海都だということをお忘れなく」
緻里たちが本部に着くと、教官は軍の制服を着て、待ち構えていた。
敵の能力者が待ち構えているかはわからないが、レーダーが捕らえた機影は数えるだけで嫌になる。
対空戦闘が開始される。敵の飛行機には優れた防衛術式が塗り込まれていて、現状の対空砲火では撃ち落とすことができない。
術式をコントロールしている術師を特定し、撃破することができなければ、防御シールドのエネルギー(かなりの量)を浪費することにもなりかねない。
緻里は無付とともに、敵航空機が去来するまでに、敵術師を撃つことを命じられた。
「あの航空戦力からすると、おそらく一人ではないだろうから、無付は攻撃、僕は防御でいこう。演習の時、理維を撃ち落とした通りに」
「先輩はいいですよね。帰ったら高校の同級生と」
「無付を持ち上げるの大変なんだよなー」
「《絶句の歌》歌います」
「前向け、来賓だ」
ここ数年で急激に進歩した両国の技術は、世界に冠する軍事大国を作り上げた。
緻里も緻密に練り上げられた大陸の術式は解析できず、大陸の側も島国の科学技術の鼻を明かすことはできずにいた。
術式の痕跡を追い、緻里は敵の将校に接近する。
螺旋の術式が体を巻いている。緻里は直感した。
こいつはマズイ。
ビュンと光線が顔をかすめる。
夜に来た理由がわかる。光を扱うのだ。
「無付。すまない。僕が撃墜されたら、骨を拾ってくれ」
「すまないって、せんぱ、ぃいい、うわぁああ」
緻里は無付を風のエレベーターに乗せ、海岸付近まで一気に降ろす。
「先輩、先輩ぃい。絶対、絶対生きて帰ってください」
「一人か」
敵の将校が口火を切った。
「わざと外したのか?」
「北城方言。君か」
低い声だが若い。緻里の情報はもうずいぶん前から大陸の情報部の話題になっていた。
「第二にいたとか」
将校は短い言葉で区切る。
「そうだとしたら?」
「だとしたら、私は安心する。第二の出身で、私よりできるやつを見たことがない」
「というとあなたは第四出身で、当然ながら城市大を出た」
「そういうことになる。雷鳴。そういえばそんなコードネームだった。雷鳴。私は世寂。第四の百傑だったのは、もう十年も昔のことだけれど、第二の後塵を拝するほど甘くはない」
春風は緻里の前で渦を巻く。どんな原理で浮いているのかはわからないが、光を扱うなら、恐らくは「なんでもできる」ということだ。
雷の種を撒きながら、緻里はゆっくり準備する。
世寂の微細な動きも風で感じる。だから、何が起きたのかわからなかった。
ジュッと肩が焼けた。痛みも感じないほどの「蒸発」。服がそこにあったことすら忘れさせる、強力な光線。
「わかっているとは思うけど、雷鳴が秒速三四〇メートルなのに対して、光は一秒で三十万キロ進む」
「雷速が光速と同じなのを忘れないでほしいな」
渾身の雷撃を返す。周囲の空気は激しく摩擦し、雷鳴が轟く頃には勝負は決しているはずだった。
「雷鳴。名前がいいね。『魔女』と最初にやり合った時、彼女はとてもいい情報をもたらした。『雷』は研究したことがなかったから。でも、光として遮れば問題ない」
「絶縁体……」
「ご名答。私の意識は人並みだし、思考を光速化することはできない。だから顔だけ防護して、あとは服に遮ってもらう」
周囲の風を束ねて、服を切り裂こうと思った。思ったところで遅かった。世寂の時計が光り、夕焼けを映した。目が焼けた。
ぐぎゃあ、と緻里はのけぞった。
荒れ狂う空気がそこかしこに雷を落とし、緻里はよろよろと高度を落とした。
バリバリバリと爆撃機が近づいて来た。
「さようなら雷鳴。今度は光じゃなくて風を使うんだね。夜襲の時間だ。やれやれ夕陽が没してしまったよ」
***
よろよろと大まかな方向と距離を掴んで、砂州公園に不時着した。
対空要塞は砲撃を始める。しかしそれは全て敵の術式の前に弾かれ、こちらも敵の爆撃を弾き返す。……そのはずだった。
ステルスがかかったように、大陸の爆弾はシールドをすり抜け、対空砲を爆破していった。
それは、大陸側の技術のブレイクスルーをはっきりと意味していた。
術式によるステルスは、もし緻里が健在であれば解析できたかもしれない。
砂州公園で無付の介抱を受けて、緻里は沈黙していた。
「先輩。死なんでください」
焼ける要塞を遠目に、なんとか医務室に運び込んだが、治療の手立てはなかった。
バタバタと足音がして、医務室の扉を叩く人。
「緻里!」
嬢憂だった。