百六十七章《早逃げ》
「制約の言語回路」百六十七章《早逃げ》
「これ」
「ありがとう。『善の研究』?」
「もらった」
「誰に?」
「案内してくれた人」
「親切だね」
「悔しいけど、お母さんの人徳の賜物」
「悔しいけど、ね」
「アメリカは?」
「悪くなかった。お土産? 考えもしなかったぜ」
「別にいい。旅行って少し疲れるわね」
***
北城市から帰ってくると、美衛は調子を崩した。
何日も学校を休み、祖母の家にこもりきりになった。
学校を休んでいることを知っているのは、優衛だけだった。学校が早く終わった日に、無然市場にふらっと寄ったら、雨情にいるはずの美衛が、祖母の家で寝ていたのだ。
「おねーちゃんどうしたの?」
「お母さんには言わないで」
「言わないよ。お父さんにも言わない。でも、先生から連絡あるんじゃない?」
「その時はその時よ」
「休めよ。つらそうだ」
***
「美衛、いるー?」
声がした。誠派の声だった。
「おねーちゃんの友達? めっちゃ美人だ」
「弟さん?」
「優衛、余計なこと言わないで」
奥から美衛が出てきた。
「言わねえよ。僕は口が固い」
美衛を見た誠派は、無言で土産を持ってきた。「高級な」酸梅湯だった。
「誠派。ありがとう。これ、高いでしょ」
「現場で配ってた。飲まなかったから、気にせず飲んで」
「おねーちゃん、この人は?」
「あんたには関係ない」
「誠派。お姉さんの同学」
誠派は、美衛に見せる自信のなさと打って変わってお姉さんらしい落ちつきぶりで、優衛に微笑んだ。
「誠派って、女優さん?」
「優衛」
美衛は苛立ちを露わにした。
「優衛くんね。よろしくね」
「出るわ。ちょっと待ってて」
「無理しないで」
「大丈夫。不貞腐れていただけだから」
「それだけじゃないでしょ」
「待ってて」
***
「血色が悪い」
「そうかな。自分ではわからない」
「あなたが窓際の席から抜けただけで、みんな寂しく思ってる」
「まさか」
「あなたのことを図書館で見かけたって、小錬が言っていた。男といるって。弟さんとは、思えなかったらしいけど。お似合いだったって悔しそうに」
「レクリエーションよ」
「図書館耐久チャレンジ失敗だったって」
「私は慣れているから。声かけてくれてもよかったのにね」
「朝まで?」
「そのための図書館でしょ?」
「それ、ホテルの間違いじゃない?」
「ホテルで朝まで何するの? 勉強?」
二人は顔を見合わせて笑った。
「どこかに行ったの?」
「北城市」
「なんかあった?」
「才能がないことに気づいて、びっくりした」
誠派は、しばらくまじまじと美衛の顔を見て、それからにっこりと微笑むと「私もよ」と言った。
「特別なことがあったわけじゃないけど、なんとなく、自分が矮小に感じられたの」
「強かった?」
「そう。とても。そして自由だった」
「この国のかたちを考えれば、自由に振る舞えるのは、強い人だけだよね」
「誠派は?」
「女優、やめようかなって。再受験で交大に入るの」
美衛は、顔を逸らして、珍しく悔しそうな顔をした。
「って言ったら?」
「誠派……」
「冗談というわけではないけど」
「慰めてくれているの?」
「一緒に落ちようって?」
美衛は、うぐっと、喉を突かれた気がした。まつ毛を合わせて、舌を引き、唾液を二回呑み込んだ。二回目には、喉が痛かった。
「何をやってるの、美衛。そして、私を危ぶんだでしょう?」
「ごめん。誠派は立派な女優だ」
「私たちは、追いかけるのよ。勘違いしちゃダメでしょ! 決して、安心できる立場じゃないんだから。そうじゃないの?」
ギリギリと拳を握る。美衛は、眉間に力を込めた。
「早逃げを諦めるのね」
「私たちがいつ、先頭を走っていたことがあったの?」
「くや、しい。そうね。そんなの、わかってたのに」
「誰かに見せるために勉強して、認められるのは、勝った時だけなんだから」
朗々と話す誠派の声は、芯が太く一途だった。
***
「美衛おねーちゃーん。勉強教えて」
「夜雷、コーヒーは飲めるようになった?」
夜雷と呼ばれた女の子は、首を振った。
「そしたら、ミルクを頼もうか」
美衛は向かいの喫茶店に出た。
「私もう帰るね」
誠派は言った。
「私がいないと持たないか?」
「そういうふうに言うのはやめて。単に、そうね、張り合いがないだけよ」
「美衛おねーちゃん?」
「ほら行くぞ、夜雷。私も一緒に勉強する。この国では、立ち止まったら置いていかれるんだ」
「美衛おねーちゃんには、誠派さんがいるけどね」
誠派はその言葉を耳にして、振り返ると、素敵な笑顔で手を振った。映画の中では見られない、さりげない特級のそれに、美衛も嬉しくなって笑った。




