百六十六章《姫里》
「制約の言語回路」百六十六章《姫里》
姫里は、道綾の娘。
綺麗は、仲良くなった道綾の娘を気に入って、よく食事に誘うのだ。
「こんにちは、綺麗先生」
「琉璃。私の大学の同期。娘の美衛ちゃん」
「イタリア系?」
美衛はかすかにうなずいた。
「今日は来ていないけど、旦那さんがアメリカ人なの」
綺麗は昔と変わらないハリのある声で、琉璃たちを紹介した。
「あのさ、姫里さん。たぶん私と綺麗の話は、美衛にはきっとどうでもよくて、美衛は、城市大のことを知りたいと思っているんだ。案内してくれないかな。私は……」
「個人的に会いたい人がたくさんいるんだ。美衛は邪魔なんだよ」
美衛が言葉を継いだ。
「邪魔なんて言わないさ。鬱陶しいだけだよ」
「同じ意味でしょ。でも、お母さんの言うとおりだと思う」
「ホテルの場所わかる?」
「後でチャットして。別に海外に来たわけじゃないんだから」
「仲悪いの?」
綺麗が心配そうに聞いた。
二人ともそっぽを向いて答えなかった。
「じゃあ、美衛、行こっか」
空気を入れ替えるように姫里が美衛に微笑んだ。
美衛はしばらく姫里を見つめると、何かを諦めたかのようにふわりと笑い返した。
「琉璃は、伯石先生?」
「約束しているんだ。夕食、綺麗もどうだ?」
「先生、私が邪魔じゃないかな?」
「何を言ってる、人気者」
***
「綺麗先生は仲悪いって言ってたけど、実はそんなことないでしょ?」
「さあ、わかりません。あまり話す機会がないので」
「私とお母さんもそうだよ」
姫里は軽く笑んだ。「でもさ、過保護よりいいよね」
「それはそうです。でも、認めてもらうためには、まだ時間がかかる」
「無理するな無理するな。十分すぎるよ」
「島国のご出身なんですか?」
「うん。美衛ちゃんは海城市?」
「そうです」
「交大じゃなくて城市大なんだ」
「なんとなくです」
「城市大は、大陸で最も優秀な学生が集まる。それは間違いないよ。美衛ちゃんの実力はわからないけど、苦しい戦いになると思うな」
「無理ならそれでいいんです。まだ、誰とも比べたことがないから」
「高校の試験では上位なんだ」
美衛はうなずいた。
「勉強は好き?」
「考えたこともありません」
「私もだよ。それが普通」
「でもたまに、何のために勉強しているのか考えることがあります」
「その問いは、案外複雑だよね。目的を設定すると、あらゆる目的が矮小に見えてくるし、目的を設定しないと寂寞の感が強い。好きだからでは、あまりに弱すぎるしね」
「でも、不思議なことに、何もないとは思いません」
「私は、第一都市の生まれで、祖母の家は、すっごい田舎。ひんやりとした東北の祖母の家が好きだったし、自分が都会的だと思ったことはなかったけど、第一学府から北城市に来て、楽しみ方を知っているとは思った。可愛い本屋とか、素敵な喫茶店を見つけたり、美味しいレストランに行ったりする」
「私は、ただ友達についていっているだけで、田舎者と大して変わらない」
「本一冊買ってあげる。もっと話聞かせて?」
***
城市大の本屋には、専門書がずらりと並んでいた。
大きな店構えではない。
ブラウンが基調のシックな構えで、棚は背が高かった。
美衛は、目を見開いて、本の背表紙をつぶさに観察した。
母の部屋に垣間見える本棚とも少し違う。新品の本の匂いを吸い込んだ。
「これ、ください」
「了解。島国の翻訳だけどいいの?」
「弟にあげます」
姫里はしばらくぽかんとしていた。「あなたの本を」と言うことももちろんできた。でも、それを口にすることはなかった。西田幾多郎の『善の研究』だった。
コーヒーを飲みながら、姫里は留学生活について話した。
寮が近くにあって、そこで一人暮らしをしている。
統計学をやっていて、趣味は音楽を作ること。
美衛は本当はその音楽を聴かせて欲しかったけれど、互いに気恥ずかしいのか、言葉にはならなかった。
「正しさっていうのは大切なことだけど、それは基礎に過ぎないっていうのは、島国ではもう本当に昔から言われている。島国の教育は、どんどん正しさから遠ざかっていく。大陸では、正しさがむしろもっと重視されているけど」
「私に感受性がないだけです。社会はより柔軟だと私は思います」
「強張りは時に人の身を守るとは思うけど」
「それが心を潰すことにつながることもあります」
城市大の敷地を出て、レストランに向かう。
「北京ダック、どう?」
「すごくいいです。とても好きです」
「それとも羊がいい?」
「しゃぶしゃぶですか?」
「うん」
「しゃぶしゃぶがいいです」
「ホテルのいいレストラン知ってるんだ。案内するね」
姫里は、スクーターを寮でひっかけると、後ろにヘルメットを被らせた美衛を乗せて出発する。
「映画みたい」
姫里の腰に手を回した美衛が言った。
「人生ってのは映画みたいなものよ。そうでないとしたら、何かが間違っている」
「そんな人生を、許してはいけないと、私も思います。図書館で朝まで勉強するのは、本当に映画みたいで」
涙が美衛の頬を伝う。「まるで大陸の受験文化を、体現している気がするんです」
「美衛ちゃんが主人公」
「そうでなければおかしいくらい、私は、深く地面に杭を打っている」
レストランにつくと、まだ少し夕食には早い時間だったのか、すぐに席に通された。
「おすすめは豆乳と火鍋」
「そうします。姫里さんは、自分を母親と比べますか?」
「比べる。母親は軍人だから、明るくて、体力があって、頭がいい。そういう人と比べるのは嫌な時もある。でも、私の方が運がいい。大陸に留学できたからね。お母さんは優しい?」
「わかりません。でもあの人は、ずっと学び続けている」
「尊敬してるんだ」
「そうです。高みにいる」
「じゃあ師匠だね」
「そうかもしれません。母親というより。でも、それについて何か自覚があるわけでもないような気がする」
「お母さんが? はは、そんなわけないよ。全部計算されているよ。想像力の範囲内だよ。でもね、人の歴史っていうのは、一世代前の人が積み上げた基礎の上に建つから、進歩するのさ。図書館で朝まで勉強? そんなの、琉璃さんが整えた世界の中でしか、成立しないんだよ。美衛ちゃんが好きに勉強できるのは、そういう理由なのさ」
「そんなの、認められないですよ」
「不貞腐れちゃって。ほらほら、羊が来たぞ! 食べよう!!」




