百六十三章《楚々》
「制約の言語回路」百六十三章《楚々》
優衛は、中学三年になる頃に、日本の第一都市にある冷英中学に短期留学した。
留学の期間はひと月で、その間ホームステイすることになった。
麻依という、冷英出身の母を持つ楚々という男の子が、ホームステイ先の友達になった。
楚々は同い年で、大陸語は話せなかったけれど、英語は堪能だったから、困った時は英語で話した。
真珠市の近くに家があり、冷英までは電車で通った。
麻依はシングルマザーで、帰りが遅かったから、楚々と優衛は外で食事をした。
面倒を見てくれる人、ということで、月雪が駆り出されることもあった。
優衛は、月雪とは大陸語で話した。それは実に安心する配慮だった。
第一学府で博士号を取った月雪は、二人を第一学府に連れて行ったり、電波塔に案内したりと、親切の限りを尽くした。
休みの日に、麻依は綾衣を呼び、綾衣と麻依の家族は、美味しいレストランに優衛を連れて行き、楽しませた。
優衛の島国の言葉は、めきめき上達した。
第一都市有数のターミナル駅近くにある書店で、麻依は和書を買い揃え、優衛の家に送った。
「課題図書だよ」
「そんな。悪いですよ」
「そう思うなら、私の家に大陸書籍を送ってくれ。きっと月雪が読む」
「月雪さんの大陸語は完成されています」
「君はまだ島国の言葉を完成させていない」
優衛は言葉を詰まらせた。
楚々は優衛をよく散歩に誘った。
真珠市だけでなく、雰囲気の異なる街々を歩いた。
月雪が車を出してくれることもあった。
佳倉の、三人の小さな子どもがいる、流命の家に寄ると、そこには島国の男と結婚した大陸の寧婷がいた。
こんなふうに人がつながっているとは、優衛には想像がつかなかった。
「浙京大に行っていたんだ」
流命は穏やかな口調で優衛に言った。美しく実直な大陸語だった。月雪の大陸語より文語的で、流暢ではないが、慣れている感じがした。
「いつもは海城市で働いている。うちの奥さんは、そういえば雨情だったな」
月雪の車は、佳倉からさらに西に行く。
雷紋に月雪が建てた別荘は、府月生の合宿所になっていた。
「麻雀はできる?」
「もちろんです」
土日は月雪の広い顔でいろんな人が集まった。
じゃらじゃらと牌が混ざる音がする。
キッチンでは料理する音。
「へえ、楚々くんの家にいるんだ」
同卓になった府月生が言った。
「はい。大陸から来ました」
「お名前は?」
「優衛です。よろしく」
「島国に来たのは?」
「交換プログラムです」
「北城市?」
「いえ、僕は海城市。あ、それ当たりです。一万二千」
「上手いね」
「それに振り込むのあなただけ」
同卓の別の女の子が笑って言った。
麻雀がひと段落すると食事の時間になった。
「刺身だ」
「苦手?」
「いや、食べたことないだけ」
「醤油とわさびつけて食べるの、あ、わさびつけすぎかも」
「んー、ー、ー」
「ごめん。もっと早めに言えばよかった」
「いや、おいしいです」
「醤油に溶かすのがオーソドックスかもね」
わいわいしながら、食事をする。総勢八人はいた。
その後で深夜まで勉強した。
優衛も辞書を使って買ってもらった本に書き込みを入れていった。
「ハーフ?」
隣に座った少し年上の女の子が聞いてきた。
「そうです」
「どことどこ?」
「アメリカと大陸」
「英語も話せるの?」
「ええ」
それだけ聞くと、機嫌良さそうにその女の子は勉強に戻った。
勉強、楽しそうにやるんだな。
合宿での勉強会で、時折煽り合うようなせりふと、それを楽しむ笑顔が見られた。
かなりくだけた日本語だったから、音だけしか脳内に残せなかった。でも、ネイティブな日本語の、野蛮な感じに、優衛はゾクゾクした。声に乗る感情の起伏が、その周囲の人たちの、際立って高い表現力を物語っていた。
「実にいいな」
「ん?」
「いえ。なんでもないです」
***
楚々と冷英に通うと、いろんな人から声をかけられる。
古典の授業では文法がちんぷんかんぷんで、楚々他クラスメイトに泣きついた。
英語では、文法用語に苦しめられたが、内容自体はすんなり把握できるから、敵は「和訳」ということになる。
そして国語である。
島国の言葉が染み入って来たのは、国語の授業だった。漫画やアニメといった娯楽作品ではなく、文学や評論などを読み込み、クラスメイトと話したのは、凄まじい刺激だった。
冷英のクラスメイトは、言葉こそ柔らかく手加減してくれたが、わかりやすい言葉で複雑な概念を伝えてきた。それはそのまま、優衛の語彙になった。
数学はそれこそ角逐の場だった。
冷英も雪花も、進学校の御多分に洩れず、数学大好きっ子の集まりだった。進度もほとんど変わらない。
優衛の解答は誰よりも速く、正確だった。
「正解。すごいな」
優衛の自信は、この機会に強化された。分野的な隙もなかった。
悔しそうにする冷英の生徒たち。
楚々が解説してくれた。
「島国の中学受験では、府学っていう天才集団の、一歩後ろについているのが冷英。この前、月雪さんの別荘にいたのが、府月っていう府学の一派だよ」
「府月の人たちは、姉と同じ匂いがした」
「お姉さんは優秀なの?」
「僕は負けねえけどな」
「そいつあ結構」
「月雪さんは、島国の同世代で七番目に頭がいいらしい。そのお母さんの綾衣さんは、世代三番目なんだと」
「府学ね。手強そうだ」
「冷英も相手してくれよ」
「そうだよな。ごめん」
「んー? 楚々、完敗ぃ?」
「そうだよ、母さん」
「あんた勉強嫌いだもんね」
「綾衣先生みたいな化け物基準で言わないでよね。割と好きな方だよ」
「お疲れ様、優衛くん。大陸の名誉を背負って緊張したでしょ」
「ええ。本当に。こんなことは、二度とあって欲しくない」