百六十二章《誠派》
「制約の言語回路」百六十二章《誠派》
美衛に電話をかけてきたのは、誠派という女友達で、彼女は女優をやっている。
学校ではあまり付き合いがない。誠派は芸能人らしい見目形で、敢えて同学と距離を取っていた。
大人に囲まれて育った誠派は、同級生を話し相手とするには大人びていた。
雨情のメンツは、そういう気配に配慮しないはずがなく、誠派の顔を見て挨拶を交わすくらいで、敢えて踏み込んだりはしなかった。
美衛は逆に、誠派から声をかけられた。
小柄な美衛と背の高い誠派は、雰囲気が全然違う。でも、友達が少ないのは同じだった。
世俗のことになんの興味もない美衛のことを、誠派は密かに観察していたのかもしれない。
二人は学校では短く言葉を交わし、込み入った話は、外で一緒に食事をしながらした。
誠派は気の利いたレストランを知っていた。
美衛は、レストランに子どもだけで入るのに、少し抵抗があったが、じきに慣れた。
誠派は、美衛と外で過ごすのを、楽しいと感じているみたいで、美衛の手を取ることもしばしばだった。もちろん学校でそんなことはしない。
誠派は長髪で、肌は浅黒く焼けていて、運動が好きだった。
二人でプールに行くこともあった。
水着を持っていなかった美衛の水着を選んだのは誠派だった。美衛は最初こそ戸惑っていたが、泳げるようになってからは、美衛の方から水泳に誘うこともあった。
「村上春樹の小説みたいね」
「どこが?」
「『多崎つくる』になかった?」
「あれは、大学生だった」
「読んでるじゃん」
二人は背泳ぎで水面に浮かんでいた。
世の習いからいくと、お金や美貌を持っている誠派の方が、主導権をとっているように見えるかもしれない。
でも実際は、商店街の看板娘の方が、持っているものは多かった。
誠派が雨情で好成績を取っているなんてことはもちろんなく、一緒に勉強するのは、美衛の成績にあやかってのこと。
交大の准教授の娘なんて、雨情の他を見てもいるはずがなく、雨情の歴史に刻まれた本屋の直系であることも、目立たないことだがすごい事実だった。
商店街の喫茶店で勉強していると、話しかけられるのはいつも美衛だった。
美人であることがおまけでしかないのは、それでよくわかった。そして誠派はホッとした。何かの呪いのようにつきまとう容姿の話が、美衛の周りでは全くなかった。美衛が敬意を持たれているから、御影の周りの人は、誠派にも配慮する。
誠派が素の自分でいられるのは、美衛といる時だけだった。
誠派はおそらく映画大学に行く。名門とされる海城電影大学の学科は、かなり難しい。実技試験もある。
誠派の映画界での評判はまずまずだが、歌手界にも映画界にも、ライバルはたくさんいる。
現場に出向くたびに緊張する。
休みの日の無然市場を歩くと、おやつを食べながらのんびりしている美衛を見ることができる。気負っているところが見当たらない。その前に座れることを、誠派は光栄にすら思う。
現場をすっかり忘れて、目の前の看板娘とお茶を飲む。日常で電車に乗っていたりすると、声をかけられることもあるが、無然市場ではかけられたことがない。
美衛しか存在していないように、みんな振る舞う。それは、美衛が誠派を気遣っていることを、商店街の面々が知っているからだった。特別扱いしない特別扱い。
無然市場にはそういう子どもが何人かいた。互いに不干渉を貫いている。八百屋の息子。本屋の娘。喫茶店のお坊ちゃん。などなど。おそらく互いに名前を知らない。すれ違っても会釈もしないだろう。
それに対して商店街の面々は、子どもたちの学歴からひととなりまで詳細に知っている。
***
二人でタピオカを飲みながら、本を読む。
商店街をバイクが通るのを眺める。
遠巻きに美衛を見る子供たちは、美衛の風貌に興味を抱いている。遠慮がちに遠回りして、声をかけることはない。
実質的に、誠派は、美衛を独占していた。
大陸には二つの特権階級がある。一つは経済的特権階級。もう一つは知的特権階級。
美衛は後者に分類される。
陽が傾いて、地下鉄の駅で別れる。
週に一回ほど会って、こういう時間を過ごす。
美衛は、おしゃべりもほどほどなのに、信頼と安心を、そこで勝ち得ていた。