百五十七章《サークル旅行》
「制約の言語回路」百五十七章《サークル旅行》
オルセナが留学期間を終えて、イギリスに帰国すると、まもなく大学も閑散期に入った。
年一の、サークル旅行を行う。今年は海都だった。
裏日本最大の都市であり、軍事要塞都市でもある海都。
島国の三位の大学、「大学中心」がある。
夏の暑い日だった。
特急氷鳥に乗って、新入生も合わせて、みんなで旅行した。
大学中心は、現在では下火になっているものの、魔法研究が盛んでもあった。
「緻里先生が、名誉教授になってるよ」
月雪が教えてくれた。緻里という名前は、ネット上で畏怖されている、島国の「異能者」のビッグネームだ。
戦争が物量戦と化す前の、戦術がまだ有効だった時代に、多くの大陸人を屠ったエース・オブ・エース。
島国や大陸の戦史には、必ず出てくる。
大陸語が堪能で、大陸での島国の言葉の教育にも尽力し、平和の陰の立役者とも言われている。
停戦合意会見で有名な綺麗が、その島国の言葉の運用能力を高めたのも、緻里のお陰らしい。そう、綺麗はブログに書いていた。
「そうなんだ。戦争のことは、あんまりわからない」
狂廊は言った。
「島国の英雄よ? 知らないの?」
「本当に戦争のことは知らないんだ」
「変な国」
***
海都の大学中心は、実に広いキャンパスを有していた。
対空設備はまだ現役。
キャンパスに入るのは少し難しかったが、安珠が機転を効かせて、先輩の大学院生をゲートまで呼んで、警備を突破した。
安珠はその先輩と話したそうにしていたが、先輩は忙しいのか、笑って立ち去った。
新入生は赤百合という女の子で、西都の出身だった。府京出身だと言っていた。
工学部所属の情報系。新しいタイプの部員だった。
府京ゆえか、ユキナとはかなり最初から親しく、府学しかわからない話で盛り上がっていた。
大学中心は、海に面していて、港が整備されて、軍艦がつけていた。
もともと湾ではなく浅瀬だった海岸は、戦争中に埋め立てと掘削で大改造されていた。
建物はかなり重鈍な作りで、図書館も、大学の顔としての役割は果たせていないみたいだった。
設備は頻繁に交換されるみたいで、重機が入るための道が広く、建物と建物の間も、距離が保たれていた。
「大学中心は、変わったみたいだよ」
安珠と狂廊が話していた。「噂によるとね」
「どう変わったの?」
狂廊が聞いた。
「学力が上がったって」
「へえ」
「戦間期に予算が湯水のように投入されたから、研究力がめちゃめちゃ上がって、軍産複合の研究にも噛んで、成果をバカみたいに出した。技術を学ぶなら大学中心だってね」
「私も」
おずおずと赤百合が手を挙げた。「私も、大学中心は考えました。情報系の研究も、大学中心は盛んです」
「なんで西都にしたの?」
「家から近いから」
赤百合は茶目っけを出して舌の先を見せた。「異能とか魔法の研究も盛んでしたね。魔法は、情報・言語・数理の分野と今は定義されていますけど、昔はウルトラ文系の分野だったとか」
「そうなんだ」
「ええ、術式とかを計算するのも、高度な言語回路の処理だったそうです。詩吟という言葉もよく聞きます。『神を震わせる』なんて」
「普通名詞なのにね。詩吟ってテクニカルターム過ぎて、よくわからなかった。言雅先生は、確か超級の異能者だって聞いたけど」
「安珠さん、言雅先生の本読まれましたか?」
「うん。でも専門的な用語が多くて、わからなかった」
「あれ、異能の教本なんですよ! 戦間期の異能者は、奥義書のように自分の異能を文章にするんです。流行りみたいで」
赤百合が興奮気味に声を出した。
「教本?」
「そういえば、言雅先生は大学院がここなんですよね。苦い思い出として、コラムに緻里先生のことを書いてました」
「緻里先生ね」
安珠がうなずいた。
「戦間期は本当にわかんない」
狂廊が匙を投げた。
「天才しかいなかったんだろうな」
ユキナがつぶやいた。
海岸は実に凪いでいた。
水平線が一文字に広がっていて、美しい景色だった。
***
要塞・学園都市の海都は、お世辞にも観光に向いているとは言えなかった。
でも学徒なら一度は訪れたい、島国有数の都市だった。
「寧婷さん、つまらない?」
「詩吟って、北城市でも第二が得意としていた術式ね」
「緻里先生はその第二に留学されていたんです」
「最大の敵を懐で飼っていたわけね。廃れた学問。ここでは今もやっているの? 少し興味がある」
「緻里先生は論文を書いてますよ」
赤百合が言った。「でも、やはり単語が含意する手続きが、ブラックボックス化していますけど。府京出身で第一学府で研究していた御笠先生の論文を読んだ時も、そう感じました。府京は伝統的に情報系が強くて、何人かの偉大な学者を輩出しています。私は、御笠先生の研究を継ぎたくて、勉強しています」
「御笠先生って、暗号解読のプロフェッショナルだよね」
安珠が赤百合に話を合わせる。
「第一学府の言情研には、一時期緻里先生もいらっしゃったとか」
「なんか聞いたことあるな。辰柿先生が書いていた。御笠・緻里の黄金コンビの話とか。辰柿先生は軍人だったんだよね。だから軍人だった緻里先生を言情研にヘッドハントした。緻里先生のお父さんとも、辰柿先生は仲が良かった。そう書いていたな」
「安珠さん、戦間期の文章を読まれるんですね」
「面白いからね」
***
海都の街は丘の上にあった。丘から港・大学中心を見下ろすホテルの、海側の部屋に泊まった。もちろん男女の部屋は別だが、酒盛りは深夜まで続いた。
狂廊は呑みすぎて静かにトイレで吐き、つまみをたらふく食べて、気づいたらこときれていた。
ベッドの上ではみ出していた脚を、毛布に仕舞い込んで、ユキナは女子部屋に戻った。
酔った安珠と梓知は、赤百合と西の方言で話し、寧婷はその抑揚が聞き取れなかった。
夜、男子陣が軒並み眠ったところで、寧婷と赤百合は女子部屋に戻った。
ユキナは後輩二人にベッドを譲り、サイドベッドで丸まって眠っていた。
メガネと本がベッドライトの小物置き場に丁寧に置かれていた。いつもはコンタクトをしていることが知れた。「呪い」についての本だった。
戦間期に異能の裏返しとして生じたとされる呪いは、病と名前を変えて多くの人を苦しめていた。
病跡学のような「それ」をある種肯定的に捉える見方が、また復活しつつあったけれど、ユキナは、「それ」を治癒させたかった。そういう医者になりたいと思っていた。狂廊が、もしかしたらその直接の理由かもしれない。
病に苦しめられても、西都に上るような、異常に強い意志を、なんとか世界に晒したかった。無名で死んでほしくない。彼をなんとか健康にして、幸せになってほしかった。
ユキナが読んでいたのは嬢憂の書いた「奥義書」。嬢憂が持っていた祝福の異能を、ユキナは持たない。でも挑戦したかった。
「綺麗な人」
寧婷はその寝顔を見て思わずつぶやいた。
窓からの夜景は美しかった。
軍艦はゆっくりと航行し、夜の海に静かに浮かんでいた。