百五十章《火曜例会》
「制約の言語回路」百五十章《火曜例会》
火曜、何もない日でもとりあえず会員は集まるみたいだった。
授業が終わって、人の捌けた総人棟の一部屋で、映画を見たり読書会をしたりしながら、時間を潰していた。
学部生のやることだから、大した読書会ではないけれど、寧婷は結構面白かった。
現代小説を読むのが、楽しみになりつつあった。
「ではこれで、今日の読書会終了、と」
「ユキナさん、お題選びありがとうございます」
「とんでもない狂廊くん、いつも君は意見を言ってくれる。枝西つきふの現代小説。私は好きなんだけど、この作家ひどいことに、男か女かもわかっていないんだ」
洋食屋瑞穂へと歩く道、タバコを吸っている。
「女っぽくないですよね」
寧婷が声を挟んだ。
「そう思うか?」
「女っぽく見せてる男。この線が濃厚です。ユキナ先輩」
寧婷は声を弾ませた。「梓知先輩は?」
「僕に聞くなよ。人間観察力なんかないぞ」
「でも文学性は一級だ」
ユキナは煙を吐いた。
「つきふは狂廊くんと少し似ている」
梓知は言った。「文面に暗いところがある」
「だから私は、狂廊くんの小説が好きだ」
ユキナはタバコを道の端に捨てた。
***
狂廊は中文と言いつつ、大陸語はほとんどやっていなかった。授業にも出ず、もっぱら小説ばかり書いている。
病を抱えているみたいだけれど、それが何かは寧婷にはわからなかった。
狂廊の筆致は、いつも抑制的だった。
揺らぎのようなものが見える。その揺らぎが消えたら、狂廊はきっといい作家になるだろう。
狂廊は梓知に懐いていた。年下の先輩に敬意を持ちつつ、とても可愛がっていた。
梓知は面々に和菓子を用意して、例会に臨んだ。ユキナから札を受け取ることは固辞して、和菓子を美味しそうに食べた。
「一人で食べるのが嫌なだけだよ」
キョトンとした顔で言うが、気遣いや心配りであることは一目瞭然だった。
面々は、寧婷に一定の親しみを表しつつ、あくまで親切な隣人であり続けた。
大学はそれまでの人間関係にとらわれない、新しい自分の表情に気づかせてくれる。
自分の機嫌で世界が動くのは、高校までらしい。思いのままにならないのは、寧婷にとっては、微かなフラストレーションだった。
***
月雪が西都に旅行にやってくるという連絡があった。
飛び起きて驚くような喜びではなく、じんわりと滲む嬉しさが、寧婷の心に広がった。
冷めているタイプと自覚していたのに、月雪のこととなると、感情が抑制できない。
西都駅で彼女を待っていた。
夏のことだった。
盆地の西都周辺は気温が高い。
月雪は、早くも暑さにうなだれていた。
「ようこそ、西都へ」
「島国の言葉上手くなったねえ」
「まだまだよ。まだ違和感あるでしょ?」
「ないよ、ないない。でもいいの? ホテル取らなくて」
「私の部屋一部屋空いてるから。ソファ倒して寝てもらう」
「感謝だなぁ。ねえ、西都大行っていい?」
「火曜でしょ? サークルの例会があるの。紹介していい? 小さなサークルなの。みんないい人よ」
「もちろん!」
「荷物、部屋に下ろそう? タクシーで行くよ」
「はぁい」
***
「この部屋、賃貸?」
「いや、買った。悪くないでしょ?」
「いい部屋だね」
からんと氷をグラスに入れて、アイスコーヒーをペットボトルから注ぐ。
「ブラック飲めないとかある?」
「舐めるなぽよ」
「ごめんぽよ」
「ありがとう。めっちゃ暑かったね。例会は何時から?」
「午後六時」
「下午六点」
「そ。どうする。どこか行きたいところある?」
「とりあえずお昼が食べたい」
「そうだった。とんかつでいい?」
「いいよー」
「混んでるかなぁ」
***
「第一学府はどう?」
「まぁ楽しいよ。府学の面々とは高校以来だし。まあ、私、お母さんみたいに三位ではなかったけど」
「悔しい?」
「まあ、七位っていうのは百位と変わんないからねえ」
「島国七位か。すごいな」
「ほどほどだよ」
月雪は、髪を茶に染めていた。しっとりとさせるヘアスタイリング剤を使って濡らしていた。
唇にはつやのある口紅を塗っている。
雪白の肌はゾクゾクするほどの滑らかさで、パウダーを受けつけない。
それを見て寧婷は羨ましいと思った。化粧で「盛る」のは寧婷の常套手段だったから。
月雪はノースリーブのワンピースを着て、長い腕は細い指先まで、まっすぐ通っていた。
覗く長い脚先には、上等なサンダルがあしらわれていた。
手元のカバンは、しっかり使われている使用感はあれど、しっかりした生地が光っていた。
「これ? お母さんに怒られるんだー。ブランド物なんて、って。そんな高級なブランドじゃないのにわかるんだから、お母さんだって俗物だよ」
「そんな高級なブランドじゃない? 私はよく知っているけど。島国の一流ブランド。私は一個も持ってない」
「何勉強してるの?」
「政治。民主主義と資本主義」
「古典だねえ。政治なんてもうとっくに人民の手から離れてる。そんな懐古的な、楽しい?」
「ええ。選挙なんて馬鹿みたいって思う?」
「くじ引きでいいよ」
「それが、民主政でしょ?」
「島国では世代別の議席割り振りが当たり前だけど、そういう操作は不要?」
「敬意と尊厳を、私は人民に期待しない。人民もそれを期待しない。無関心なままで、私たちは自律的な機械になる。そんなの、くそくらえだよ」
「でもその屈託が、矛盾が、大陸を強くしてきた」
「おためごかしよ。そんなのごまかしでしかない」
「苛立ってる?」
「私は、機械人形になりたくない。上からそうであるように規定されることも、下から諦めて天を仰ぐことも、我慢ならない」
「広い箱庭の中から出るのは大変ね」
***
「友達のつきゆき」
「こんにちは、月雪です」
月雪の背の高さ、服装に、圧倒された寧婷は、さぞや火曜休日の面々も驚いてくれるだろうと期待していた。
狂廊が手を振って、気さくに話しかけると、他の面々も適当に挨拶をした。
大学が第一学府なのだと伝えると、「府学?」とユキナは笑って聞いた。
「私は府月です」
「私も府学だ」
「西都大医学部ですか?」
「ああ、席次は?」
「私は第七席です」
「そいつはすごい」
「母は第三席でした」
「それは、桁違いだな、その差の四席は、悪いけど埋め難い差だ」
月雪は微笑んで、言葉を差し控えた。「少し言葉が過ぎた。第一学府第七席に、言うことはないよ」
「中華でも食べますか?」
寧婷が言った。
「いいね」
梓知が唱和した。
「私が気に入っている店があります」