十五章《綺築》
「制約の言語回路」十五章《綺築》
綺築が緻里の高校時代の学友である嬢憂と知り合ったのは、嬢憂が医学部の五年目に差しかかる頃だった。西都全体に物理防御網が展開し、古都の雅な寺院は、気遣いの中に守られていた。
学生の町でもある西都は、老人の町でもあり、経済は不調で、国家の立場からすれば穀潰しだった。その反面優秀な学生が集まり、街には不思議と活気があった。
綺築は西都郊外にあるある機械メーカーに所属していて、西都大学を卒業した後、兵器の開発に携わっていた。
大学の講義に、若い講師として参加した綺築は、その後の懇親会で、会に参加した嬢憂と短い立ち話をした。
戦争について(もう十分に泥沼化していた)簡単な意見交換をした後、綺築は言った。
「殺すということがどういうものなのか、僕にはわからないんですね。そう。理系にとっての愛情と同じです。でもハンナ・アーレントは、愛は公的な領域では意味をなさないと言いました。殺すこともそうなんでしょうか。『殺傷能力』『破壊性』『制圧機能』。どれも政治の世界で口に出すと、殺しはなんの意味も持たない空っぽでがらんどうに聞こえるんですから」
「それを、綺築さんはどう、思っているんですか?」
嬢憂はとても気の利いた質問をした。
綺築はネクタイを少しだけ緩め、笑顔を作った。
「遊園地で遊ぶようなものです。おままごとです。深刻になっていられないですよね。だって僕は、頭を使うことが人を殺すことであるなんて、認めたくないし、絶対にそうではないとわかっている……信じていますから」
その「わかっている」と「信じている」には千里の隔たりがあることを嬢憂はすぐに嗅ぎ取った。それとともにどこか可愛らしい戦争への「馴れ」が綺築の脳内を支配していることを感じ取った。
少なくとも多くの大衆が遠隔で敵地を攻撃することに無批判なことに比べると、戦争に対する違和感が綺築の意識の中にあるとわかった。
でもそれは、戦争を起こさないためには使われなかった。戦争を止めるためにも使われていない。ただ個人的な違和感と正当化のせめぎ合いだった。
誰も戦況を把握していない。正確な情報はどこにも転がっておらず、鈍磨でのっぺりとした感覚が蔓延していた。
嬢憂は、無感覚なのにナイーブな、少し年上の綺築の雰囲気が嫌いになれなかった。
科学技術に卓越している国の、欠かすべからざる人材という側面が一ミリも魅力にならないのに、凡庸で素朴なひととなりがむしろ(というよりよっぽど)嬢憂の母性をくすぐった。
「バカじゃないの?」
そういう口ぶりで、居丈高にかぶせてやりたかった。というより嬢憂は、戦争の全てに徹底的に対抗したかった。
嬢憂の先輩には、軍医として従軍している人もいた。
嬢憂自身も、空爆にさらされた地方で、応援を要請されて医療行為に当たることもある。
医療行為。嬢憂は精神科医になりたかったはずなのに、今救うことができるのは、外科的な治療を求める多くの一般人で、全てが戦争の歯車になり、嬢憂の技能もその渦に吸い込まれていってしまうのが、あまりにもやるせなかった。
「本当は自動車を作りたくて入った会社だったのに」
そう言いながら綺築は、自分の言っていることの意味を、本当にわかっているわけではないようだった。
嬢憂はその年上の男性に、叱咤したい反面、傷つけたくないというアンビバレントな思いを抱いた。
綺築には何も理解されないだろうというあらかじめ催された落胆と、理解されたとしてそれが綺築の精神や生活に及ぼす影響を考えた時の躊躇から、結局は何も言えないのだ。
西都は学生の町だ。大陸の言語に卓越した留学生もいるし、多文化主義的な風土も持ち合わせる。大陸の人々の顔を見たことがないなんてことはない。だから、今は皆が麻痺しているだけなのだ。彼らが健気に島国の言葉を覚えて使っていたことを、忘れてしまっているだけなのだ。
綺築と何度か会ううちに、異性と食事なんかを共にすることの、時代的な意味を嬢憂は考えざるを得なかった。科学者で、銃後にいる人のことだから、死なないだろうな、とか。そういう目で綺築のことを見た。
専門バカで、教養はない。綺築は人生の意味合い、微妙なニュアンス、孤独の自覚、複雑な感情等々、何も持ち合わせていないのだ。
でもそれが、愛おしく思えた。それは自分も多かれ少なかれそうなのだと、反省するからでもあった。
「僕の作った爆弾が、何人かの敵を殺します。でも大陸には何億の人がいるんですか? 何千万平方キロメートルの国土があるんでしょう? とてもじゃないけど根絶することはできない。根絶なんて、誰も考えていない。じゃあ、最初の何人かの敵を殺すことに、果たして何があるのか。僕にはわからない」
「未来永劫恨まれるために」
「恨まれるために。そうですよね。つまり歴史に残るということ。でも歴史に残るのは、殺人兵器を作った僕なのではないかと思うんですよ。怖がっていたら眠れなくなるので、考えないことにしていますが」
歯を見せて笑う。
嬢憂もつられて笑った。湿っぽくなく、悲壮感もなかった。乾いた咳のように反射的に出てきた笑みだった。笑みの後ろには延々と続く影が落とし込まれ、誰もが仮面をかぶり、その下で顔を歪ませていた。
「とてもありがたいことです」
綺築は言った。「誰かと話ができると、まだ少し弱くなってもいいのだと思うことができます。弱いままでいいのだと思うと、少し安心します」
殺風景になった西都で、殺風景になった自分に気づく。嬢憂は高校時代の緻里とのバカみたいなやり取りを思い出さずにはいられなかった。もう五年も前のことなのに、今でもそばに緻里がいるような気がした。
寺から漂ってくる抹香が、嬢憂の気に障った。食べるものは美味しくなかったし、話すことは楽しくなかった。脳に働きかける快感を、努めて抑制しなくてはならない。この感覚が、この世界の全ての人に共有されている。制約の一つの形。それが戦争なのだ。
「こんなんじゃ恋愛も楽しめないよね」
嬢憂はふーっと息を吐き、ランタンの火が灯る橋を歩いていた。
空に敵国の飛行機が飛び、爆弾を落としてくる。
防衛シールドが展開し、西都は守られる。花火のようだと、嬢憂は喉からくっくと声を漏らした。
「ちょっと真面目すぎたかも」
自嘲するつもりだったのに、それに呼応して、どこかでまた笑い声が響き、それがこだました。
背筋に電流が走った。嬢憂は、それがどういうものなのか、俄かには理解できなかった。声が響くことで西都全体が揺れ、シールドの下で地震が起こるかのように、構造物が崩壊していく音がした。
高らかに笑う声がどんどん音量を増していく。川の水は黒く墨のように濁りながら、ランタンの火を映している。
大きな意味での精神病だと、嬢憂は推量した。精神感応する無意識の集合体が、不自由な心の軋みを表現している。
構造物は全く揺らがない。そのソリッドで物質的な構築がむしろ、何の内実も含まない、反復と倦怠の精神作用を暗示しているようでもあった。
「つまり私たちは、戦争で家を失うことで、戦争をする代償を払っているのかもしれない。人が死ぬことで、戦争をする対価を滞りなく払い、精神的なバランスをとっているのかもしれない。西都では異常はないの。それが私たちの悲哀なの」
笑い声は止まなかった。現実がぶれて二重になり、乖離した片方の西都は、劇場のセットのように独特の論理と風景を得た。
嬢憂の心身も引き裂かれ、興奮する身体と、それを危機と捉える精神が、対立し、まるで救急医療の現場みたいだった。片方で出血し、片方はそれを止血する。そういう状況を自ら作っているのだから、自作自演としかいえない。
古典的な狂気に、現代の人が取り憑かれるのも、現代化された環境のすぐ裏側に、まだ文明化されていない野蛮な「人間」のロジックが伏在しているからなんだろう。
とりあえず笑い声は止まなかった。
ハーッハッハー、ハーッハッハーと、ひと笑いするたびに、嬢憂の気分はいびつに高揚した。それを抑制する理性を働かせようとして、精神に負荷をかける。耳を塞いでも意味はない。ここでは誰も死んでいない。誰も戦争の対価を支払っていないのだ。