百四十八章《西都留学》
「制約の言語回路」百四十八章《西都留学》
月雪のクラスの底抜けの明るさは、たぶん月雪が生み出しているんだろう。
彼女はクラスを率いて、それを誇ることもなく、ただただ歩く。
彼女を慕って人がついてくる。
ガンディーやキング牧師のようだ。
「私は、彼女の光に当てられたんだな」
ちょっと間抜けな顔が、可愛いのだろうか。
「私がそう振る舞っても、誰もついてきてくれないだろうなって」
「そりゃそうだろ。月雪は特別だ」
「流命、あなたねえ、優しい言葉をかけてくれてもいいじゃない!」
「まあ、無い物ねだりはよせ。寧婷にはいいところがある、どことは言わんがね」
「どこにもないってこと?」
「つっかかるなよ。もう美貌を褒められて喜ぶ年齢でもないだろ?」
「島国のレトリックには、いつも感心するわ。さすが『源氏物語』の国ね」
「そういえば、寧婷って何系なんだ?」
「学部の話? 政治系」
「何読むんだ?」
「ドイツの政治思想は、悪いけど嫌い。フランスはいいけど、英米も勉強しているわ。島国の政治は、正直参考にならない」
「たとえば?」
「キッシンジャーとか、クリス・パッテンとかね」
くすくすと書いていて笑う。雨情の図書館には、結構な年代物の本がある。
「本国のは?」
「時間の無駄。結局、マスとしてしか、国民を見ていない」
「そんなもん、どこの政治家だって一緒だ」
「そう? そんなことはないんじゃない?」
しばらくやり取りなく、流命が寝たのかと思って、シャワーを浴びた。
肌の手入れをして、しばらく課題をやった。
留学の手続きの書類を読み、しかるべき代理人と連絡を取った。母は、西都大のことを知らない。寧婷とて知っているわけではないが、西都の雰囲気は、実に彼女の向学心を煽った。
母とはしばらく話していない。手続きは自分でやった。
大陸で受験をやらないのは、同級生に少し申し訳なかった。
とはいえ、雨情では令外官のような立ち位置だったから「一緒に〜」とか「協力して〜」みたいな、余計な気回しをせずには済んだ。
何で島国に行きたいと思っているのか、寧婷は実はわかっていなかった。月雪の影響は計り知れないが、一日付き合ってもらった流命にも、一定負うところがある。
彼らと過ごすなら第一学府でもよかった。
直感はそれに反し西都だと言う。
何もかもが不合理だ。
「そういえば」
と、流命からあった。「もし、島国の大学を受験するなら、この前行った祖母の家に泊まるといい。新幹線の駅も近い」
「ご親切にどうも」
「家を借りるには保証人も必要だ」
「買うからだいじょーぶ」
「そいつぁ、重畳」
「私のこと好き?」
「そりゃ好きだよ。当然だろ?」
「何で抱いてくれなかったの?」
「好きだったから、踏み込めなかったんだよ」
「冷淡な男って思った。私から誘ったのに」
「手慣れている感じに陥れられたくなかったんだ。順序があるんだよ」
「知らないわよ、そんなこと」
「寧婷は?」
「は?」
「俺のこと好きなのか?」
「わかんない」
「人を好きになったことがないんだな」
「マンガのせりふやめて」
「失礼」
「あなたは? 大学どうするの?」
「浙京大学」
「大陸に来るんだ」
「ああ。俺は漢文学が好きだからな」
***
気づけば、一人も友達なんていなかった。
最初から、関わる人は、寧婷の顔を見て近づいてきた。
関係を清算してしまえば、与えられたのは一人分の体だけ。
逃げるのかと言われたこともあった。それは、半分正しい。
島国に降りた日、寧婷はまたとんかつを食べた。しばらくホテルに泊まり、受験し、一度佳倉の流命の実家に身を寄せた。
おばあちゃんのご飯がまた食べたかったから。
流命もまた、受験で島国を離れていた。
月雪と連絡を取ると、一度食事ができた。
とても綺麗になっていて、びっくりした。
中華が恋しいというと、チャイナドレスを着て、大陸料理の店に連れて行ってくれた。
細く、足が長く、背が高い。
寧婷も服装は整えたが、まさか島国の人間にお株を奪われるとは思ってなかった。笑った。
「どこにしたの?」
「んー? 第一学府だよ。家から通えるからね。私の家、金持ちじゃないから」
「第一都市にもまた来る。つきゆきも西都に来て。私がたくさんお店に行って、いろんな道を知って、つきゆきを案内する」
「島国の言葉が上手くなったねえ」
「それを大陸語で言うのやめて」
***
河原町通沿いの2LDKの部屋を買った。丸太町通を少し南に行ったところ。
自転車を買うと、それでもう体裁が整った。
大事な部屋だと思った。父親が信頼して買ってくれた部屋だ。台無しにしないようにする。
大陸人の留学生のグループは、寧婷と似た境遇の人が多かった。金持ちで、リベラルで、大陸とは別の拠点を持ちたいと思うから、死ぬ気で島国の言葉を覚えている。
そういう人たちの中で、寧婷は本当に末席しか与えられなかった。小さくなって、時間が過ぎていくのを眺めていた。
美人であっても、特段評価されるわけではなかったし、彼らには島国の恋人がいた。
可愛がってくれる人も中にはいたが、性欲は背中に見え透いていた。
そういうグループとは距離をとりつつ、寧婷はしばらく勉強した。
政治学を主専攻として授業を受けた。
教養の授業は概して簡単で、時間が余ったから島国の小説を読んだ。
小説なんて、大陸の古典を除いてほとんど読んだことがなかった。どういうものかもわからず、ただ図書館に置いてある文庫本を、片端から読んでいった。
図書館に置いてある文庫は古典叢書だったから、しばらく昔の文体に触れることになった。『源氏物語』も現代語訳を読んだ。
(しばらく時間をおいて、寧婷は『源氏物語』は原典で読むことになる。古典文法を学ぶことでさらに深まった島国の白話への理解は、彼女をして極めて優秀な島国の言葉の使い手にした。それは、島国の例えば作家がやるような日本語の修練だった)
文芸サークル「火曜休日」は、たまたま掲示板に鞍馬山を登るイベントを掲載していた。味気ないチラシだ。ちょうど手頃なサークルを探していた。
たった五人の弱小サークル。それが、彼女の大学時代の最大の思い出の一つになった。