百四十七章《父親》
「制約の言語回路」百四十七章《父親》
冷えるなと思ったら雪が降っていた。
鴨川沿いのホテル。積もる雪ではなさそうだけれど、遠くの山はほのかに雪化粧していた。
朝ごはんを食べに近くの喫茶店に行き、パンとコーヒーを飲んだ。
寧婷は、チェックアウトして、大きめの荷物や買った本をフロントで郵送する手続きを取り、身軽にして空港へと向かった。
春節も終わりに近づいていた。
***
帰ると珍しく父がいた。
「どこ行ってたんだ」
なんて聞くはずもないか。
「どこに行っていたんだ?」
「お父さん。そんな、え?」
「どこに行っていたんだ?」
「島国に、遊びに」
「バカが」
「すみません」
「あんな世間の狭い人種に、何の用があって。まったく」
「すみません」
「寧婷。馬鹿正直に言うから怒られる。お母さんには言わないでおく。友達の家にいたとでも言うんだな」
「お父さん」
「私に嘘をつきたくなかったか?」
「そういうわけでは」
「無理するな。お前の方が優秀なんだ。低いレベルに合わせるなんてしなくていい。お前が無事ならいい。少し心配していたが、法外な小遣いを与えるのも、悪くはないな」
(言ってる言葉の意味がわからない。いつもそうだ)
***
月雪にチャットする。
「西都に行ってきたよ!」
「いいなぁー。どうだった?」
「西都大行きたい」
「いいやんいいやん! 大学上がってから留学するか、ダイレクト留学するか迷うよね」
「そういえばそうね」
「流命にはちゃんと遇してもらえた?」
「特級の栄誉を賜ったわ。本当に感謝している。ちゃんと伝えてあげればよかった」
「私から伝えておくよ」
***
「お父さん。大学のことなんだけど」
「ん?」
「島国に留学するのはどう、かな?」
「とんでもない」
「そう、だよね」
「とでも言うと思ったか?」
「へ?」
「悪くない。顔つきが変わった。お母さんに似て、美人だが、昔から悪い面をしていた。今は違う」
「わ、わたしは、悪い面なんて、そんな」
「私が怖いか?」
「怖い。何言われるかわからないんだもの」
「何かきっかけでもあったのか?」
「島国の友達ができたの」
寧婷の父はそれを聞いて目を見開いた。
「すごく頭がいい」
「お前よりか?」
父親は本気でそう言っている。買いかぶっているわけではない。寧婷は、端的に言って強者だ。寧婷は頷く。
「たぶん」
「そいつはすごいな」
「お父さん!」
「冗談じゃない。お前は実によくできた子どもだ。それを凌駕するのか」
「なんていうか、完敗なのよね。笑っちゃうんだ。この前、その子を酔わせてかどわそうとしたんだけど、彼女の後ろには何人もの人がいて、びっくりしたの。まさか交大の准教授に潰されるとは思わなくて」
「何の話だ?」
「なんでもない。こっちの話。しばらく頑張って勉強します。郊外の家の鍵返しとく。このリビングの、ダイニングテーブルで、私は勉強するんだ。少しは帰ってきてよね」
***
「寧婷、最近付き合い悪いな」
「そう? そろそろ受験だからね」
「だからこそリフレッシュする時間があってもいいだろ」
「やりたい?」
「お前さぁ」
「私はやらない」
梁は、心底驚いたという顔をした。
「俺ら、お前に付き合ってたんだぜ?」
「知ってる。甘い汁に寄ってくる虫ね」
「寧婷、何があったんだよ。お前のレベルなら、手を抜いたって序列三位、交大くらい余裕だろ?」
「城市大は落ちるって言いたいの?」
「どうしたどうした。お前は海城市に住んでいるんだから、行くのは交大じゃないのかよ?」
「私は島国に行く。もう決めたんだ」
「お前だけ、綺麗になるのかよ。反吐が出るな」
***
学校から帰る道すがら、囲まれた。夜だった。
「はぁ、油断した。燕さん、恨んでる?」
「そういう問題じゃないよ。確かに停学はくらったけど」
「合わせる顔がない。何度もやりとりした仲だけど」
「島国に行くんだって?」
「梁に聞いたんですか?」
「ずるいよな」
「私もそう思いますけど。……あなたを好きだった時間を、不意にするのは少し残念です」
「寧婷。お前美人すぎるよ。一回したら、他じゃ満足できない」
「そりゃ結構。でも、私の魅力を、からだ、だと思っている人と、ずっと一緒にいられます?」
「お前は頭がいいな。俺もお前の立場ならそう言う。自分が頭がいいと、本気で思っているのか?」
「燕さん。こうやって囲むのは、頭がいい行為なんですか?」
「お前のことが、みんな好きなんだよ」
字面は芝居がかっていたが、声の調子は殊の外普通だった。
「私も、燕さんが好きですよ」
ひどく皮相的なせりふだった。寧婷の心は、一段上に行き、それまで対等だった大学生を、置き去りにしていた。
その皮相さに、怒るのはもっともなことだ。言ってから、寧婷は天を仰いだ。
「上からものを申すなよ」
燕たちはじりっと距離を詰める。「お前の受験には邪魔をしない。もう少し仲良くなろうぜ?」
「捨てられる男ってのは、こうも醜いのね」
「何とでも言え。俺らを利用したのはお前だ」
「そうね。勝手は私の方かもね」
「《少年の君》の陳念みたいに、服を破り裂かれたいか?」
「その映画観たわ。私、魏萊みたいないじめっ子だもの。それも、天罰ね」
「あの魏萊の女優は確かに美人だ。でも、お前の方がもっと美人だよ」
(やるぞ)
(いやだいやだ。まみれるのだけは勘弁だよ)
***
「私の生徒に何か用事でも?」
寧婷が目をギュッとつむり、歯を食いしばって男の欲望に耐えようとした時、声が聞こえた。
「星声先生」
「梁は?」
「あいつならびびって来なかったよ。お姉さん、前のバーでも来ていたな。一人か?」
「一人よ」
「その小さな口に、ねじ込んでやりたいぜ」
梁がいないのは、星声が丹念に指導したからだ。
「四人か。結構多いな」
「先生。何で」
「帰り道がたまたま一緒だっただけ」
「なにそれ、主人公かよ」
シュン、という音がした。一人吹き飛ぶ。
「は?」
地面に叩きつけられる鈍い物理音。
聞こえないくらいの小さな声で、スペルを唱えている。
「先生、魔法使いなの?」
「みんなには秘密にしてね」
俊速で地面を蹴ると、膝をもう一人の顔面に打ちつけた。
速度の物理法則からしてその衝撃は計り知れない。ぐしゃっという音が聞こえた。
「何だよ、何なんだよ。俺が何をした? この女と付き合ってただけだぜ? なんでこいつだけ救われて、俺は指弾されるんだよ。おかしいだろ。ほんとどうかしてるぜ」
「燕くん。もう寧婷に近づかないで」
「わかったよ、わかった。おい、担いでいくぞ」