百四十六章《寧婷の西都旅行》
「制約の言語回路」百四十六章《寧婷の西都旅行》
新幹線に乗って、寧婷は西都まで足を伸ばした。
「実にいいな。とても住みやすそうだ」
鴨川や三条四条を歩き、西都大学を覗いた。
西都大学のキャンパスは、特段綺麗というわけではない。図書館は人も少なく、広く、不思議な感じがした。
昔の大魔法使いが根城にしていたと聞くから、さぞや古色蒼然としているかと思いきや、蔵書は新しい。建物も古くない。
エレベーターで後ろにいる学生が、くすくす笑っているのは、自分が高校生だからだろうか。
島国で買った服を着ているのだから、大陸風なんて言わせない。
「大陸の本はありますか?」
司書に聞いた。
「地下書庫にあります。荷物はロッカーに預けてください。カードキーをお渡しします」
軽い荷物をロッカーに入れて、地下まで降りた。
「お、先客だ」
大陸語でつぶやく。
「高校生、ってか大陸人か」
大陸語が帰ってきた。
「島国ってのはどうなってんだよ。大陸語どこでも通じるじゃん」
「何を探しに?」
「大陸語の本」
「ご同業か? 大陸のどこ出身だ?」
「かいじょーし。あんたは?」
「俺は島国の北尾道。北の果てだ」
***
「昔は、生業として大陸の東北部によく行っていた家族の末弟でね。よく大陸語を使っていたんだ」
「東北部ね。確かに訛ってる」
「お前の海城方言も大概だろ。ってか、なんかすげえ美人さんだな」
「ありがと。全く土地勘ないの。わかるでしょ? 案内して」
「その棚の七ブロック先のはずだ」
コツコツと足元を叩く。
「あなた、西都の学生?」
「俺は大学院生だ。お前は?」
「かいじょーしの高校生。お手柔らかにね」
「天空四強なら、そちらの方が格上だ」
「雨情よ。崇めろ」
「そいつぁすげえや。天才なんだな」
「……」
「悪かったよ。頭のいいやつってのは、天才という言葉を嫌う。でも秀才じゃあ表現しきれない。やっぱ天才だ」
「悪い気はしない。ありがと」
「旅行か?」
「ええ」
「いいところだろ?」
「旅行の成果としては十分過ぎるほどよ。あなた名前は?」
「聞かない方がいい」
「それもそうか」
そこの本棚だな。と、大学院生は言った。
手動の積層書架を開けて、大陸語のコーナーに風を入れた。
「いい匂い」
「あんた、この大学に来いよ」
「バカなこと言わないで。私は、大陸人よ。島国の言葉だってここ六ヶ月ちょこっとやっただけなんだから」
「向いてるよ。お前さんみたいな美人は多い。お前なら特別な西都大学生になれる」
「考えておくわ。もう一度聞くけど、あなた名前は?」
「俺は聞きたくない。だから答えない」
「そう。わ、これ沈従文だ」
「好きなのか?」
「あんまり読まないけど、先生の先生の先生の先生の時代の人」
「俺にはよくわからない」
「あなたは何を探しているの?」
「王澍」
「建築家ね」
「文筆家だよ」
「昔の人だ。懐かしいな」
「お前、本読むんだな」
「お前って言うのやめない? 私は寧婷」
「寧波かどこかの出身なのか?」
「あなたたちどうかしているわ。私は寧波となんの関係もないし、寧波がなんなのかもわかっていない。同じ質問をしないで。普通の名前よ。嫌いなほどにありふれた名前」
「悪かったな、寧婷」
「ふわぁ、これ、まさか胡適の初版!? どうなってんのよ」
「うちの大陸語研究は、昔から盛んだからな」
「敬意を感じるわ。大陸への敬意を」
「喜びすぎだ」
「すごいすごいすごい。朱光潜も。天国みたい」
「よかったな。じゃあ、俺は」
「あなた、ちょっと」
「ん?」
「お礼言ってなかった。ありがとう」
「どういたしまして。じゃあな」
「本当に名前……」
「そんな顔すんなよ。だけどさ、悪いけど、あんたとは縁遠い気がすんのさ。さよなら、寧婷小姐」
***
島国の人間ってどうなってんだよ。
寧婷はムスッとしていた。
図書館を出て、鴨川を歩いている。デルタでは音楽を奏でる音が聞こえる。まるで紫松公園かと紛う。
火は傾いて、ほの青く光る空に、星が煌めき始めた。
古い欄干の灯りが、光をともした。
大陸南方の石の橋と重なる景色。
「綺麗な川。お腹減ったなあー」
背伸びをして、駆けた。ホテルのある四条まで。
四条のアーケードには昔ながらのランプが灯っていた。新しい照明のはずなのに、そう感じさせない光量だった。
「何食べよう。……とんかつ、とんかつってなんだ?」
揚げ物らしい食べ物。端末に入れた中和辞典を引く。とんかつ。
「とんかつか。いいじゃない。高くないし」
カランお音がして入店を告げる。
「何名様ですか?」
「ひとりです」
「カウンターでもよろしいですか?」
「だいじょぶです」
「メニュー、英語のものもありますけど」
「一応」
「だいじょぶそうですね」
「あの、一応」
「冗談です。お待ちします」
やはり日本語のメニューでは無理そうだ。ちょっとわからないことが多過ぎる。ご飯・味噌汁・キャベツおかわり自由? なんだおかわりって? キャベツってなんだ? なぜにカタカナ。特別なものか? ソースは、無料なのか?
英語のメニューを開くと、すべての回答が書かれていた。
英語を読みながら、アメリカ人のフリをしようかとまで思う。
「ご注文どうされます?」
「上とんかつー、180グラム」
「島国の言葉がお上手ですね」
「ありがとうございます」
「大学生さんですか?」
「高校生です」
「お一人で、島国に?」
「変ですか?」
「勇気がありますね、っと、いや。失礼しました。ご立派です。楽しんでください」
***
とんかつ。すごい美味しかった。
「なんだあのタレ。まじで美味いな。キャベツにもかけちゃったよ」
アーケードを歩いて、お土産を買いながら、甘味を探す。
「黒糖ラテ」
テイクアウトして飲む。故南のものとは少し違う。
夜の風景では一番かもしれない。穏やかな光の石が散りばめられている。
どこまでもふらふらと歩いていけそうだ。まるで魔法にかかったみたいに、ふらふらと。
ホテルに戻ると、すぐに眠った。
深い眠りだった。鴨川が流れる音が、聞こえてくるような気がした。さらさらと流れる水音が、例えようもなく心地よかった。