百四十四章《流命の佳倉1》
「制約の言語回路」百四十四章《流命の佳倉1》
「あなた、月雪の恋人?」
ホテルのロビーで待ち合わせた流命に寧婷は聞いた。
「まさか。彼女は単に俺が大陸語を話せるから任せただけだ。何も考えていないよ。月雪が好きなんだな」
「まあ、そうね」
「電車に乗って海沿いに行く。佳倉だ」
「楽しみにしているわ」
そっぽを向いて、寧婷は言葉を落とした。
流命は、質実剛健。背が高く、体はがっしりしている。髪は短く、眼鏡をかけている。
「あなたをなんと呼べばいい?」
「流命でいい」
「るめい。わたしは」
「Ning ting」
「発音が完璧なのが癪」
「少数民族系統?」
「系統はね。戸籍上は漢人よ」
「大陸は昔から変わらんね」
「るめい、何歳よ」
「大陸の歴史が好きなんだ」
「変なの。変わってる」
「佳倉は俺の父方の実家だ」
「かくらって何?」
「昔の世俗権力者の軍都だよ。天津みたいなところさ」
「天津?」
「本当に中国史に興味がないのか?」
「あるわけないでしょ。どうでもいい」
流命は、そこに小さな嘘を見た。「天津?」と聞いたが、それは知っている人のレスポンスの速さだった。
何が寧婷を歪めているのかはわからなかったが、彼女の言葉を額面通り受け取ることはできなかった。
時折使う嘘は、特段意図があるわけじゃなかった。コミュニケーションの起伏を作るためのサービスのような気もしてくる。だから流命は敢えて嘘を追及しなかった。
「あなた、頭がいいのね」
「府月の平均だよ」
「あそこ、桁違いの進学校でしょ」
「それは否定しないけどな。ちなみに、月雪は島国でも十指に入る頭脳の持ち主だ」
「つきゆきが? 冗談を」
「まあ、大陸なら並だろうな」
「そんなことはないけど」
「彼女の良さが生かされないだろうからな」
「まあ、受験ばかりだしね」
「月雪は、楽しんで勉強している。誰も彼女の邪魔をしない。彼女の母親は、島国の受験では三位だったらしい。はっきり言って桁違いだ」
「お母さんね。つきゆきも、しばしば言及していたわ」
「天才だよ。そして」
「ん?」
「月雪が認めたんだ。お前もそうだろう?」
寧婷は、驚いた顔で、流命を見た。
「私が?」
「別に隠さなくてもいい。大陸では珍しいタイプだな。周りを見下さないようにしようと、気をつけているんだろ?」
「島国の人は苦手だわ。なんでも見透かしてくるんだもの」
***
「古い電車ね」
「ああ、もうここは、捨てられているんだ」
「捨てられた?」
「この場所を守る人も、整える人も少なくてね。資本主義が席巻してから、なんでも嫌なことは金で解決してきた。そのツケだよ。守ったり整えたりすることは、本当は金でやっちゃダメなんだ」
「綺麗よ。車掌さんの声も、電車の警笛も、そんなもの海城市にいたら聞かない」
「天空四強か?」
「なんでも知っているのね。私は雨情よ」
「そりゃ光栄だな。島国の人口と比べたら、大陸の人口圧は桁違いだ。府月でもほとんど及ばない」
「るめい、本気でそう思っているの?」
「半分はお世辞だが、半分は本気だ。島国の人間は、本当は、大学受験なんか本気でやっていない。『競争? 何それ美味しいの?』よく月雪は言っている」
「残酷な世界ね」
「よくわかるな。そういうことだよ。もう決まっていることなんだ」
「競争は、人類の本質的な営みよ」
「それはそう思う。あんまり悪口を言わないでくれ。ここは、終わった世界なんだ」
佳倉に降りる。小さなプラットホームだ。
階段を降りて、コンビニに寄る。
「島国の飲み物は美味しいと思うぞ」
「オススメある?」
「カルピス」
「じゃあそれ奢って」
「お前なぁ、っと、わかったよ」
カルピスを買うと、ポンと放り投げた。
寧婷は片手で格好よく受け取ると、ペットボトルを開けた。
「何これ」
「ダメだったか?」
「めっちゃ美味しい」
「そりゃよかった」
***
佳倉駅から十分ばかり歩いたところにあるビストロに、昼食を食べに入った。
「流命、彼女か?」
「残念。友達の友達だよ」
寧婷は、その言葉がわかったけれど、何で流命がそんなに笑顔なのかわからなかった。
「顔馴染みなの?」
「ああ、ここでこの街を守っている男の一人だ」
「なにそれ、冒険譚みたいじゃない」
「大陸語か、お姉さん、大陸人なのか?」
「こんにちは。流命くんの友達の、ねいていといいます。よろしくお願いします!」
「こんにちは。島国の言葉が話せるんですね」
「ええ、少しだけ」
「どうぞどうぞ。お座りください。お肉とお魚、どちらがいいですか?」
「お肉で」
「俺は魚で」
「あなた、あの方、四十歳くらいだと思うけど、そんなに砕けてていいの?」
「昔から家族で来ている。大丈夫だよ、寧婷。中華料理じゃないと不安か?」
「まさか。私の家は金持ちなの。外食くらい……」
「それ、言うの苦しいんなら、言わなくてもいいんだぜ」
「あなた、嫌いよ」
前菜とスープ。メインにパン。デザート。
一つ一つはそんなに大きい皿じゃなかった。寧婷は残すことなく食べ切れた。この店を選んだ理由を聞きたくなった。
「お腹いっぱいになった?」
「寧婷は?」
「私は、ちょうどよかった」
「そりゃ何より」
「あなたは?」
「同じメニューで楽しめてよかったよ」
「私の話聞いてる?」
「美味しかったか?」
「すごく美味しかった。あなた、貴族なの?」
「貴族? そんなもの二百年も昔になくなってるぜ」
「私が言っているのは……」
「普通だよ。ここは島国なんだ」
「私が払うわ」
「会計はもう済んでいる」
「あなたねえ。私の立つ背がないじゃない」
「気にするなよ、寧婷。お前は俺の賓客なんだ」