百四十三章《紹介》
「制約の言語回路」百四十三章《紹介》
空港から真珠市までは、特急列車を使った。
「ほんとは車でお迎えできたらよかったんだけど」
「構わない。出迎えてくれるだけでもありがたいわ」
寧婷は月雪の腕に触れた。腕を組むのを拒まれなかった。寧婷は安心した。安心?
「ほんとはさ、ほら、特急のお金とかも出してあげたかったんだけど、私、子どもだから」
「別にいい。金なんか腐るほどあるから」
もう古びた島国のインフラ、特急は、せいぜい時速百二十キロ。大陸の空港リニアとは違う。
旅慣れているのか、寧婷の荷物はかなり少なかった。
「服は?」
「買う。化粧道具くらいしか持ってきてない」
人形みたいな可愛さだった。島国の言葉の単語帳を持って、いくつか月雪に質問した。
島国の言葉も、かなり板についている。
ホテルまで一緒について行って、チェックインの手伝いをしようと思ったけれど、不要だった。英語と島国の言葉を駆使して、寧婷は自力でコミュニケーションした。
荷物を軽くして、二人は外に出た。
「どこに行きたい?」
「つきゆきの高校」
「府月?」
「Fu yue?」
「そう。高校の名前」
「大陸の高校の名前みたい」
「雨情は逆に島国っぽい。昼休みに着くかな。ちょうどいい」
環状線に乗って、寧婷を連れていく。
***
「月雪! サボるって言ってなかったか?」
「先生、友達が大陸から来たので、高校を紹介しに来ました」
「おお、ようこそ。お名前は?」
「ねいてい、といいます。よろしくお願いします」
「ずいぶん垢抜けた友達だな。月雪とは全然タイプが違う。腕を組むのは、大陸の流行?」
「いえ。私は、つきゆきが好きなのです」
「そりゃ結構。おサボりも程々にしろよ」
「はぁーい、先生。教室に連れていくよ」
教室にたどり着くまでに、月雪は三回声をかけられた。
「人気者だね」
「背が高いから目立つだけ」
「みんな優しそう」
「そうだね。みんな優しい」
(私とは違う)
(そんなことないよ)
***
「たのもー」
月雪の気の緩んだ声に、反応するクラスメイトたち。
「介紹一下」
「お前、サボるってグループチャットに書いてなかった。てかそのお人形さん誰? 紹介して」
「こんにちは、みなさん。つきゆきの友達のねいていといいます。どうぞよろしくお願いします」
「かわいい!」
「こんにちは!」
「列に並べ。順番に自己紹介しよう」
寧婷は月雪の袖を見えないように掴んだ。
(緊張しないで)
月雪は笑いかけた。寧婷は喉を鳴らし、顔を上げて月雪のクラスメイトたちに向き直った。
みんな興味と関心を寧婷に向けていた。
自生する個々人の個性が、知らずとも伝わってくる。自由だ。活力がある。雨情で肥大化していた自我が、急速に萎んでいった。
寧婷は次第に笑顔になった。軽く自嘲した。
「大陸の海城市から来ました」
「寧婷ってどう書くの?」
寧婷は黒板にチョークで名前を書いた。
「すげえ綺麗な字だ。月雪も見習うべきでは?」
「私の字の真髄がわからないとは、まだまだ未熟よの」
寧婷はくすくす笑っていた。
島国だったら、女優と言ったって通じる。板についた美しい所作。
彼女の顔に釘づけになっているのは、男だけではなかった。大陸美人。その魅了に、府月の面々はなんとかあらがおうとしていた。
教室を覗く他のクラスの生徒。たちまち昼休みは飽和した。
寧婷は驚嘆した。府月の面々が、実に生き生きと自己紹介し、笑顔を見せ、時にたどたどしくとも大陸語を話した。
無邪気で、子供っぽくのは、雨情と変わらないけれど、彼らには自身がみなぎっていた。
大陸では、政治屋や経済人の子どもが、雨情に来ることが多い。
でも見立てでは、府月の生徒たちは、それだけではなかった。
一夜にして財をなす人々ではなく、会社や企業に奉公する、生活者としての親を持っていた。
「社長になる」
そう、雨情の生徒は言う。それが、家族を守るということだから。
府月の面々の無邪気な顔が、綺麗だった。
机の上に山と積まれている参考書などなく、それも、雨情とは少し違った。
金持ちであることなど誰も気に留めてくれない。それが、人間関係の本質なのだと、寧婷は直感した。それよりずっと、月雪のような可愛くて、心の清らかな女の子がモテるのだ。
寧婷は自分と自己紹介した府月の面々が、最後に月雪に笑顔を見せるのが印象的だった。そして、寧婷は自信のあった自分の美貌に、誰一人なびかないことに、笑ってしまった。普通なら、大陸では、その美貌に何人もの男が跪くというのに。
月雪の支配力の方が、よっぽど強いのだ。その支配が全く揺るがない。異常なことだった。そして、これも悔しいことだったが、寧婷は自己の美貌の向こうにある残虐さを、彼らが見透かしていることを感じ取った。
最後の一人が言った。
「月雪を裏切るなよ」
ハッとして顔を上げた。発音の美しい大陸語だった。
「あなたに何がわかるの!」
気づいたら、言葉を向けていた。
「月雪は優しいが、ここにいる皆が優しいわけじゃない」
「わかってるわよ!」
「流命くん。聞こえてるよ」
月雪が大陸語で言った。
「流命?」
「ああ、俺の名前だ。それが?」
「ひどい名前ね」
「お前の名前だって大概だ。寧波が故郷なのか?」
「寧波?」
「何でもない。中国の歴史は未履修らしいな」
「あなたねえ」
「だが、実に美人だな」
「当然」
流命は口を引き結び、目線を落とす。
その仕草は、大陸では流行らない。島国のアニメで見た、不同意の表情だ。
それに続く言葉を、寧婷は知っていた。
「何が残念よ!」
「驚いた。心を読めるのか? いや、そういう人心掌握か。臆病なんだな」
逆に寄せられてしまった。
(大陸語でなんやかんややってるな)
(険悪だぞ? 流命何やってんだ?)
(月雪聞こえてるのに、にこにこしてやがるぜ)
「なんでも持っているのに孤独」
「そうよ? それのどこが悪いの? あなたは違うの? 私には何もない。でも何もないまま、生き続けているのよ!」
「つまらないことも一生懸命やれるんだな。立派なことだ。頑張りすぎはよくない。月雪にほぐしてもらうといいさ。島国を楽しんでくれ」
「ねえ、流命くん」
月雪が、口を挟んだ。
「流命くんって、明日の授業サボれる?」
「嫌な予感しかしないな」
「明日はサボれないんだけど、寧婷に付き添ってくれない? 私たち今日は真珠市を巡るんだけど、他の街は知らないから。流命くんなら、第一都市のことよく知っているでしょ? 寧婷もいいでしょ?」
さっきまでのやり取り聞いてた? という顔。
「いいでしょ?」
「ま、まあ」
「流命くんは?」
「佳倉でも連れて行くさ」
流命は寧婷と大陸のメッセージアプリを交換した。
「聯信、持ってるんだ」
「大陸の友達もいるからな。お前みたいなやつはよく見かける」
「あなたにとっては、ステレオタイプってことね。反省する。明日よろしくね。サボらせちゃってごめん」
「構わんよ」