百四十二章《春節》
「制約の言語回路」百四十二章《春節》
「すみません。お見送りをしたかったのですが、所用でできなくなってしまって」
琉璃は電話口で綾衣に詫びた。
「とんでもない。楽しい旅でした」
「月雪さんには悪いことをしました。あの食事会、私はとても楽しかったですが、たぶん退屈だったのでしょう」
「娘が席を離れたのに何分も気づかない私も私です。また琉璃さんも島国にいらしてください」
「ありがとう、綾衣さん。必ず会いに行きます。もし、月雪さんが大陸の大学に来られるのなら、城市大ではなく、ぜひ海城交通大に。それでは」
「いい友達もできたみたいだし」
「それならよかった」
***
月雪は、島国に帰っても、ずっと寧婷とチャットしていた。
回りきれなかった建築の写真が送られてきて、月雪も島国の写真を返した。
(それにしても、キスか。寧婷は大人なんだな)
バーの暗がりで見た、寧婷の妖艶な表情は、忘れられなかった。
大陸の女の子は、みんな奥手だと思っていたけれど、自分の方がよっぽど奥手だ。
バイクに乗って、あの租界の建築を見ながら生きているのか。
「羨ましいよ」
「とんでもない」
二人の間の、バーの件から来るかすかなしこりは、それがむしろ彼女らを会話に駆り立てた。言及されないことが常に視界にあって、二人の関心を結んでいた。
「怒られなかった?」
「星声先生、サディストなんだもん涙」
「よく燕さんと遊ぶの?」
「まあね、先輩だから」
「梁くんは?」
「悔しそうにしてたよ。あと少しで島国の至宝の唇を奪えるところだったんだから」
「私の唇に、そんな価値ないよ」
「でも私たちも卑怯よね。酒で撹乱するんだから」
「気持ちはわかる。でも私、ほんとに隙だらけだ」
「今度、島国行った時、島国の男の子紹介して」
「誰でもいいのかよ」
「うん。誰でもいい。受験勉強で鬱憤が溜まってるの」
級長のような、真面目な振る舞い、知的な言動は、一種のポーズといったところか。粗野な部分を見せてくれるのは、月雪のことを気に入っているからだろう。
じきに、そのチャットには島国の言葉が混ざるようになった。最初こそたどたどしかった島国の言葉も、半年が経つころにはほとんど文法の混乱もなくなり、電話でも、意思疎通は流暢にできるようになった。
***
寧婷は、海城市の中規模の銀行家の家に生まれた。
海城新都心と呼ばれる現代的な地区の、高層マンションに住んでいる。
海城市の郊外に、家族はセカンドハウスを持っていて、気をつけて使えば、そこで何をしてもバレなかった。
父親は、特に家を顧みることはなく、母親は寧婷が勉強に不真面目なことを憂いていた。
雨情では上位に位置する寧婷だけれど、人生には欠落があって彼女を蝕んだ。
学校で見せる意志の強い言論は、将来政治に打って出るための練習のようなもので、彼女たちの野心としては実にありきたりなものだった。
彼女は弱みを見せない。それがあだになることも数回あったが、特に彼女の考え方を変えたりはしなかった。
セカンドハウスには週末ごとに行き、クラスメイトと少し勉強した後、ベッドの上で遊んだ。
それは、最高のリフレッシュであり、それからまた勉強と遊びを交互に繰り返した。
クラスのライバルに、友達をあてがって、耽溺させ滑落させたこともある。
かなり複雑な感情と、行為に対するコミットメントが、泉からあふれる水のように潤沢な実践知を、彼女にもたらしていた。
いじめもするし、誘惑だってお手のものだ。言葉はどこまでも実直なのに、それは表面上の操作でしかない。
***
星声は、そういう寧婷の特性をよく知っていた。
折に触れて呼び出し、適宜注意した。
星声は寧婷には言わないが、寧婷の「弱さ」を危惧していた。
クラスの女の子としては、特級の弱さだ。しかも、大陸の家族のあり方としては珍しい、ネグレクトの結果だということもわかっていた。
寧婷が食事を家族と取らないことは、星声も知っていた。寂しさが遊びやいじめの火種だった。
だからこそ、月雪が雨情に来た時に、彼女が見せた言葉のきらめきに、寧婷は一種の希望を見出していた。
寧婷は、月雪に惚れたのだ。それが、星声にはわかった。
無垢で、力強く、美しく、満ち足りた月雪を見て、眩しいと思ったはずだ。
相関があるかは定かではないけれど、あの月雪との邂逅以来、星声のクラスの成績は、極めて顕著に上がった。
半数以上の生徒が、パフォーマンスを格段に上昇させ、課外での島国の言葉や文化への興味を増幅させた。
星声は島国の本やマンガやアニメを、できる限り集めてライブラリに入れた。
月雪の連絡先を知っているのは寧婷だけだったから、クラスメイトは寧婷に月雪の近況を聞いた。
それが寧婷には誇らしかった。
***
春節の休みにかかって、寧婷は実家の集まりから逃亡して、飛行機に乗って島国に訪れた。
月雪は、寧婷を歓迎するため、学校を休んだ。
空港で寧婷と待ち合わせして、手を振った時、寧婷が綺麗に化粧して、小顔を彩っていたのを見て、月雪は思わず写真を撮った。
月雪は、昔の綾衣にそっくりだった。
度の低いメガネをかけ、髪をつまんで小さなツインテールにしていた。まるでアニメから出てきたヒロインみたいだった。