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百四十一章《交大食事会》

「制約の言語回路」百四十一章《交大食事会》


 海城交通大。キャンパスの中央に位置する湖を見下ろす、広いテラスのレストラン。


 上海料理を出す。大学教授会の、特別な会議の時に使われる。そのほか、来賓をもてなす時にも。


「来賓とされるほど、私たちは特別ではありません」


 実直なイギリス英語で、綾衣は早速気の合う教員を見つけたようだった。


 王礼という四十代の女性教員。分析哲学が専門だった。


 かなり高度な意見のやり取りがあり、綾衣は文学畑の人間として、哲学に対峙した。


 島国研究は交大の方が城市大より優れていると、しきりに言う教員に、飾絵は絡まれていた。


 乾杯の音頭があり、杯を重ねると、そこは魑魅魍魎の巣窟に変貌した。少なくとも、月雪にとっては、何かを言おうとしても、言葉にならない。格段の知識の差があった。英語も、大陸語も出てこない。泣きそうだった。


「どう? 海城市の夜は?」


 寧婷からチャットがあった。


「最悪。交通大にいるけど、周りの人の言ってることがわからない」


「あのテラスのレストラン?」


「知ってるの?」


「まあねー。ホテルは?」


「上海飯店」


「抜け出しちゃえ。あそぼ! 帰りはホテルまで送ったげる。北門で待ち合わせ。いける?」


「いける!」


 綾衣と飾絵の目を盗んで、レストランから抜けると、北門へと走った。


***


 食事会は、ひっきりなしに皿を持ってきた。ほとんど食べる間もないのに、何皿も何皿もやってきた。


 綾衣も飾絵も、月雪のことを忘れて、話に耽った。何人かの学者の名前を覚え、島国への滞在の計画なんかを簡単に話し合った。


 プライベートで来ていたはずなのに、途中から仕事に変貌していった。


「やあ」


 寧婷は手を振った。


 月雪は嬉しそうに尻尾を振って近づいていった。


「バイクで来たんだ。ヘルメットをどうぞ。後ろに乗って!」


 ヘルメットをポンと渡す。


 中型の、可愛いバイクだった。


「夜の外灘は綺麗だよ」


 寧婷は、腰の細い、小さな女の子だった。背だったら、月雪の方が十センチばかり高いだろう。


 月雪は寧婷の腰に手を回して、ストレートに落ちる長い髪に鼻をつけた。


 キラキラとした星が落ちて光っているかのような、海城市外灘の景色。


「つきゆき、交大に来なよ」


「行きたい」


「城市大なんて、私は許さない」


「うん」


 大きな橋にかかる。電動バイクがものすごい数走っていて、寧婷のバイクもまた、その一つだった。


「ご飯は?」


「全然食べてない」


「奢るよ。悪いけどレストランじゃない。普通のチェーン中華だよ。まさか牛丼が食べたいとか言わないよね?」


「まさか!」


***


「つきゆきは、背が高いね。北方系に少し似ている」


「寧婷ちゃんは、小さくて可愛い」


「コンプレックスだよ」


 チェーン中華で、ご飯を食べながら話す。


「何人か呼んでもいい?」


「いいよ!」


「近くにいるから、すぐ来ると思うよ」


 しばらく話していると、二人、男の子が顔を見せた。


「梁」


「燕です」


 梁も燕も、背が高く、燕の方はどうやら大学生らしかった。


「梁は雨情の後輩。燕さんは、交大生。雨情の先輩だよ」


「こんにちは。月雪です。島国から来ました」


「こんにちは。背が高いね。旗袍持ってる?」


 燕が言った。


「qi pao?」


「チャイナドレス」


 梁が補足した。


「持ってないです」


「買ってあげるよ」


「え?」


「燕さん、金持ちだから」


 燕が会計をすると、バイクで百貨店まで走った。


「楽しい?」


「めちゃくちゃ楽しい!」


 バイクは風を切ってどこまでも遠くへと連れていってくれそうだった。


 元租界にある百貨店は夜十二時までやっている。


「いらっしゃいませ」


「彼女に一着」


「どの生地がよろしいですか?」


「紅色がいいんじゃない?」


 体のサイズを測り、生地を決める。


 住所を書いたところで、店員が月雪を見た。


「島国から来られたんですね」


「海外への郵送は難しいですか?」


「いえ。あなたが、大陸人だと思っていました。とても美しい大陸語を話されますね」


「大陸顔だよね、つきゆきは」


「とても、綺麗です」


 店員は言った。


 奢られる感覚は、しっくりとは来なかったけれど、寧婷が全く気にしていなかったから、遠慮する必要を感じなくなった。


 バーに行き、酒を呑み、気分が上がっていた。


 まだ成人していないとは、言い出せる感じでもなかった。お酒は、本当に甘く美味しかった。


「月雪ちゃんは、彼氏とかい、」


 電話が鳴った。


「ん?」


「こらこら。つきゆきが可愛いからって、梁」


「お母さんからだ」


「そんなの無視しちゃえよ。今日くらいもう少し、俺らと」


「何かするの?」


 無垢で、それ故に挑戦的な瞳に、梁は引き込まれた。梁の目に、強く欲望の意志が宿る。


「っ、く。何かってさ、ほら、わかるだろ?」


「わかんないわけじゃないよ。でも私、まだ高校生だよ」


「でも女だ」


 隣の席で、燕と寧婷がキスをしていた。


 かちゃんと後ろで扉が開く音がした。


 気にも留めずに、梁は月雪の肩に手を回した。


「ふえ?」


 ぼんやりして唇を開け渡す。


 その直前に。


 梁が吹き飛んだ。


 木の板が張られたバーの床が大きく軋む音がした。グゲっという声がした。襟首を引っ張られたみたいだ。


「何やってるかわかってる?」


 淡々とした口調。怒りはなく、冷静な声。


「誰だよ! 邪魔すんなよ!」


 背の低い、可愛らしい顔をした琉璃だった。


「あなたこそ誰? 高校生でしょ? 飲酒なんてもってのほかだし、その子は私の賓客なんだ。月雪ちゃん。帰るよ」


「かんけーねーだろ、おばさん。年増がイキってんじゃねーよ」


「思慮の浅いガキだね」


「一人か?」


 燕が言った。


「そうね。この子を探している子が何人もいるの。私はたまたま、心当たりがあった」


「怪我する前に帰れよ。それともおばさんも、俺らの仲間に入るか? 結構小顔で、可愛い感じだけど」


 琉璃は口元を緩ませ、ふ、と息を吐いた。


「私は既婚者だからね。そんなことしなくても可愛がってくれる旦那がいる。君たちは、若いね。大学生?」


「ああ」


「どこの大学か言える?」


「舐めんな。先輩は交、」


「交通大?」


 琉璃は重ねた。予測していたのだ。


「凡人とはちげーんだよ」


 梁が居丈高に言った。


「そうなると君も、雨情かどこかの生徒か」


 琉璃はため息をついた。


「聞こえた? チャットに上げた住所に急行して。星声、何人か連れてくるんだよ」


 琉璃はチャットグループに音声を吹き込んだ。


「星声、先生?」


「私も雨情と交大を出た。今は交大で科学史家をやっている。凡人とは違う? まあ、凡人を舐めるなというところだね」


 カタンと音がして、星声が入ってきた。


「星声、せんせい」


「月雪さんと、仲良くなれた?」


「先生、」


 月雪はテープルの上で重なっていた寧婷の手を握った。


「年上と仲間になるのは気分のいいことよね? 私も、琉璃さんが上にいて楽しかったもの」


「私も、可愛い年下が仲間なのは、悪くない」


 ガタガタと人が入ってくる。


 月雪は寧婷の掌に、「またね」と書いた。


「月雪!」


「お父さん」


「早く帰るぞ。こっちに来い」


「みんなはどうなるの?」


「気にしなくていいよ、月雪さん。それは、私たちの領域だから」


 星声が笑った。嗜虐的な瞳だ。


 寧婷は震えていた。


「交大の、何年生? 名前は?」


 琉璃が間合いを詰めて燕の喉元に立って聞いた。「さっきは堂々と言ったのに、今は答えられない?」


「燕です。今二年生です、先生」


「学生証ある? 指導教官は?」


 淡々と事務的な作業に入る。星声に梁と寧婷は引っ張られていき、パラパラと解散した。


 綾衣は後ろにいて、飾絵が腰の抜けた月雪を起こして、タクシーに詰めると、ホテルまで帰った。


 怒られなかった。


「なんで?」


「自分でわかっただろ? その上で怒るなんて蛇足だよ」

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