百三十七章《旅行》
「制約の言語回路」百三十七章《旅行》
「旅行?」
月雪はリビングで学校の課題を片づけながら、飾絵の世間話に耳を傾けていた。
「ああ、大陸なんかどうかなって」
「お父さんは大陸語話せるの?」
「会話くらいならね」
「私も、大陸語話したい!」
高校生になった月雪は、無意識の向学心を剥き出しにする。
飾絵は、緻里のところへ、月雪を連れていった。
緻里はもう六十近くになっていた。
月雪の目には、緻里はもう二十歳若く映っていた。声も若く、特別な人のように見えた。
隣には寡黙な思純がいた。
大陸語のネイティブである思純は、緻里の求めに応じて、滑らかに課文を読んだ。
月雪は最年少だったが、大学生や、外交官なんかも、違うクラスではあったものの、ともに授業を受けていた。
広いリビングは、テキストと文房具、黒板なんかで、ごちゃっとしていた。
月雪は、父親譲りの並外れた言語センスで、大陸語を吸収していった。
府月の放任主義から自然と、難度の高い読み物と格闘するようになっていたから、文章への貪欲さは、ここでも存分に発揮された。
綾衣は、大陸語なんかやっていて大学受験は大丈夫なのかと危ぶんだが、飾絵は、それこそが大学受験だと、問題視しなかった。
緻里と思純の教室、教え子の集まりで、月雪は大層可愛がられた。
その頃にはもう、月雪は綾衣の背の高さに近づいていた。
***
緻里の元での基礎的な大陸語学習を終えて、飾絵と綾衣の家族は、一週間ほどの大陸旅行に出発した。
北城市と海城市を巡る、オーソドックスな旅だ。
三人の荷物はリュックサックそれぞれ一つで、綾衣は手元のものを大体ポケットに入れていた。
緻里から、何人か知り合いを紹介されて、会える人リストを作って行った。
そこには「綺麗」と、島国の言葉にすると到底名前にはならない、不思議な名前が記されていた。
メールを送ると、空港まで迎えに来てくれるという。
わずか三時間ばかりの空で、その間月雪は大陸語の単語帳を読み込んでいた。
空港に降りて、天井の高い空港の出口に着くと、いかにも見つけやすいところに、綺麗は立って、昔ながらの紙を用意して、「月雪様御一行」と印字して待っていてくれた。
「ん?」
「ん? って?」
飾絵は綾衣の言葉を拾った。
「ゆず雲の……?」
「ゆず雲? ゲーム?」
綺麗は気づいていなかった。
「ゆず雲の?」
「こんにちは!」
綺麗はにこやかに手を振って飾絵たちを迎えた。
綾衣にも負けない背の高さ。三十になった綺麗は、もうみんなの記憶に残ってはいなかった。
綺麗を見たことはあった。あの、センセーショナルな停戦で、通訳をした美しい女性。
でも、島国では、名前を知られているわけじゃない。
だから綾衣は、そういう意味で思い出したわけじゃない。
「昔、戦争中に、春付和で、ゆず雲を買ってなかったですか?」
「ゆず雲。昔、やったゲームです。え、あの時私にゆず雲を譲ってくれた、人。が、綾衣さん? 赤ちゃんが」
「お母さん?」
「なんでもない」
「奇縁ですね」
そう言うと、綺麗は笑みの強度を高めて、車へと家族を導いた。
「ちぇ。島国の言葉うますぎるし」
「今、大陸語勉強しているの?」
「是的」
「你叫什么名字?」
「月雪」
「発音がいい」
「緻里先生と思純先生に習ったの」
「へえ。世間は狭いわね」
綺麗は大陸語でそれを述べた。
「飾絵さんは、第一学府で緻里先生と?」
「ええ」
「あの、淡々とされた中に、常に愛があった」
「僕はそこまで話さなかったですけれど」
「今、思純先生と一緒に暮らしてらっしゃる」
「ええ。昔馴染みみたいですね」
しばらく、車は北城市の道を進んだ。
「綺麗さんは、と、すみません。私は飾絵のように流麗には大陸語を話せないから、島国の言葉で」
「構いませんよ」
「北城市の方なんですか?」
「そう。江戸っ子のようなものです。大陸的な表現にはなりますが、北城市は、私の誇りです。大陸では、多くの物事が、ここを起点に起こります。歴史を見ることができる」
「島国とは違いますね」
「お二人は、第一都市でしょう?」
「アメーバのような街です。中心がない」
「大陸政府は、その自生的な在り方を強く恐れていた」
「そうかもしれない。価値観は、強制されない」
「上意下達の世界は、恐怖でできています。権力は人民を恐れ、人民は権力を恐れる」
「綺麗さんのような知識人は、大変でしょう」
「怖いですよ。よく高校の先輩に脅されます」
くっくっくっと笑う。自信に満ちた、柔らかい冗談のように。それでも、多くのことは事実に近いはずだった。「街の写真はあまり撮らないように。観光地だけ。カメラを下げておくのはお勧めしません」
「ゆず雲は面白かった?」
「うん、めっちゃ」
「結局、私はやらなかった。育児が忙しくて」
「すみません。あの時譲ってもらえてなかったら、私島国に来た目的を果たせなかった」
「どうやって来たの?」
「パスポート偽造して、故南から」
「すご」
「海城市は、私の同期に案内させますよ」
「何さん?」
「琉璃。今、大学で科学哲学史を教えてる」
「先生?」
「私はしがない高校教師ですが、彼女は大学教員」
「インテリには変わらない」
「とんでもない」
と言いつつ、綺麗はお世辞でも、悪い気はしなかった。
「ホテルまで送ります」
「ありがとうございます」
予約したホテルは、龍井府中環ホテルという、香港系で中規模のホテルだった。
「レストランは、ぜひ市街地に出て探してみてください。私のおすすめをいくつかリストにして送っておきますね。一応、北城市ですので北京ダックは一度はご賞味を。では」
「あの」
「はい?」
「我想去城市大学」
「非常好。那儿是你的未来」
月雪は唇を震わしていた。
未来。まるで予言だ。その意味を、月雪は瞬時に把握して、心に刻んだ。
綺麗は端末から燦を呼び出す。スピーカーをオンにした。
「喂?」
「島国の言葉で」
「うん?」
「知り合いが城市大見たいんだって。まだ所属しているよね?」
「何時?」
「あと三十分後」
「北門にいるようにする」
ぷつっと通話は途切れる。
「私は城市大とは縁もゆかりもないので、高校の後輩を呼びました。バトンタッチ」
「綺麗さん、ありがとうございます。ホテルなら自分たちで行けますので」
「そうですね。月雪ちゃんの大陸語力があれば」