百三十六章《停戦》
「制約の言語回路」百三十六章《停戦》
長い年月の戦争中ずっと、島国と大陸は外交交渉を重ねてきた。
両国間にある島の領有権、領海の線引き、航空機・船舶の航行の自由。
渡航の制約や経済交流。
人的交流の活発化。
これらは、降って湧いた話ではない。水面下で条件付けが進められていた。
条約の締結に合わせて、双方の条約文のすり合わせが行われていた。
島国の言葉の文言の精査に、綺麗は一員として加わった。
***
公務での休業。
綺麗が離脱した進学班は、がらんとしていた。情報は生徒まで降りてこない。噂だけが煙の様に立つが、正確なものは一つとしてなかった。
綺麗は、外交ルートを使い島国に降り立つと、公費で辞書という辞書を買い集めた。
対訳の必要はない。ただ、専門用語を噛み砕いている辞書が必要だった。
条約調印場のフランスの地方都市に、それを持ち込んで、ホテルの会議室で文言を精査する。
陽成も、その場にいた。外交部の文官として、流麗な島国の言葉で挨拶をしていた。
島国の武官としては、道綾が要として立ち回っていた。
バタバタと走る音がする。
もうここにきて、軍隊はいらないとばかりに、みんな笑顔だった。
両国の首相も出席している。
綺麗も、道綾も、陽成も、緻里の顔を探した。いつも両国の架け橋となっていた緻里を、探さないわけにはいかなかった。
でも、見当たらない。
綺麗は、壇上に立って停戦合意の演説をする首相の隣で、にこにことカンペも見ずに、通訳をした。
島国の首相の通訳をしたのは、道綾だった。
綺麗は、スーツではなくチャイナドレスで。
全世界にその顔が知られた。
ネットでは、綺麗の名前は、少しばかりの民族主義的な誹謗中傷もありつつ、広がっていった。
ニュースを見た生徒たちは度肝を抜かれたことだろう。
全てはメディアの世界。映像の世界だった。
条約は調印された。
停戦は実行される。
***
道綾と、陽成は、久しぶりの再会に乾杯した。
「結婚したの?」
「ああ」
「そりゃおめでとうだね」
「道綾も、また大学に戻ったらいいよ。城市大はきっと、道綾を歓迎する」
「そうね。考えとく」
「緻里先生は?」
「私も会いたかった。呼ばれてないのかな?」
「おい」
陽成は武官に呼び止められた。
「こいつが何人同志を殺したか知ってるのか?」
道綾は、渋面を作り、その場を退いた。
ふわりと外を戯れに浮き上がった。
緻里はいた。
「緻里さん」
「道綾、少尉」
「今は大尉です。でも、階級はいらない」
「道綾さん」
気づかなかった。思純もいた。
「私の名前を……」
「あなたは世界でいちばん有名な女の子の一人」
「恐縮です」
「綺麗はきっと、あなたに会いたいって思ってるんじゃない?」
思純は緻里に言った。
「もう僕のことなんか忘れてるよ」
「思ってもないことを言わないで。あの島国の言葉は」
「元から知っていた。彼女はよくできていたよ」
「島国に帰るの?」
「そうだね」
「私たちも歳を取った」
「ほんの少し前のことの様な気がする」
「私にしてみれば、宇宙の開闢より前」
「とても」
「とても」
「短い時間だった」
「長い時間だったわ」
一つは人生であり、一つは歴史だった。
道綾の電話が鳴った。
「綺麗ちゃん」
仲良くなったのは通訳同士。歳は離れているけれど、おしゃべりな女の子同士だ。
「緻里先生がいるの!?」
「いる。ほら、先生」
「もしもしっ!」
「お疲れ様。僕がやりたかったことを、君は全てやった。見事だ」
「とんでもない。先生は、ここにいる全ての人に大陸語と島国の言葉を教え、……」
「お世辞はいい。お疲れ様」
「はい」
ホテルの部屋でチャイナドレスをほどき、下着姿のまま、ポタポタと涙をこぼした。
「先生。ありがとうございました」
「君の言葉が、世界標準の島国の言葉だ」
緻里の声は、少し震えていた。
「ああ、僕が、やりたかったんだ」
電話を受けた道綾は、降りていき、ホテルのバーで綺麗と待ち合わせた。
ロビーで取材陣に囲まれ、抜け出すのに一時間はかかったけれど、卓越した外国語を共有する二人は、その報道陣網を抜けた。
綺麗のチャットには、琉璃がポツリと、「辛苦了」と書いていた。
***
「私なんか、国に奉仕する気なんて全然なかったのに」
「僕もだよ」
「あなたは、どうして?」
「僕以外にできる人がいなかった」
「そんなことない」
「僕の仕事をやって欲しくない友達がたくさんいたんだよ」
「島国の人らしい」
「思純は?」
「いつか、あなたに会えると」
「僕もだ」
「長かった。そうじゃない?」
思純は、涙を流さなかった。
「戦争は、長かった。でも、僕の人生は短い」
「無駄でも何でもなかったって、言ってくれない?」
「バカな。無駄なわけがないだろう」
「ありがとう。孤独だった?」
「いいや」
「私も。ただ、あなたがいなかっただけで」
「そんなこと、考えている暇がなかったよ」
「あなたらしいわ」
じゃあね。と言って、思純は風の階段を降りていった。
フランスの風は、濃密な石の香りがした。
***
緻里は何年振りにか、島国に帰った。
紫は、若くして亡くなっていた。
家はもう他の人の手に渡っていた。
父母も死んでいた。
全てが白昼夢だったかの様で、寂しさはないとは言えなかった。
嬢憂は西都大の医学部の教授になっていた。
西都に行った時に顔を見に研究室を訪れた。
「遅いよ」
「大して待たせていない」
「こっちは子どもが大人になってるって言ってんの!」
「遅いか」
「遅いよ」
「そうかもしれない」
言雅も、西都大の教授に。でも、敢えて挨拶はしなかった。
緻里は、大陸語を教える職についた。大学の外国語教員。非常勤で色々な大学を巡った。
幸い需要は鰻登りで、本も数冊書いた。
それが緻里の人生だった。