百三十五章《帝寧》
「制約の言語回路」百三十五章《帝寧》
「もうみんなわかった? 薄々勘づいていると思う。思考のアウトプットより、連関のない知識のインプットの方が難しいって。気づいた? 体を作る方が先。技を磨くのは後。わかった?」
綺麗は、澄んだ声で言った。
「数学も暗記ですか?」
「少なくとも、基本的な解法は頭に入れてないと。でも私は、積和・和積の公式くらいは、導出できてもいいと思うけど。覚えるより正確ならね」
「三倍角の公式は?」
「私は導出できたけど詰め込んだ。使うからねー。でも、みんなそれくらいできるでしょ?」
詰め込みアレルギーは生徒たちに蔓延していたが、綺麗は、容赦なく詰め込んだ。
学期末、テストは留学クラスの時は、形だけのものだったのに、進学班は違う。綺麗のクラスだけ、さらに一時間追加のテストがあった。
「これ、瑞の。これ、整麗の。これ鋼の。これ、……」
指名して間違えた問題の詰め合わせ。一学期分。生徒たちは目を見開き、汗を背中ににじませた。
「これ、先生の親切だからね?」
カリカリと解く生徒、天を仰ぐ生徒。くっきり二つに分かれる。
「この類の抜き打ちテストは、しばしばやりまぁーす。準備してくるのでぇーす。わかったぁ?」
唖然とする一同。
「蛇足だけど、このテストの結果がどう使われるか、みんななら、わかるよね?」
***
懐疑と信頼。批判と受容。主観と客観。
「雑談だけど」
綺麗は板書した。「受験に必要なのは、懐疑と批判と客観。反対側はいらない。でも、人生に必要なのは逆。信頼と受容と主観。論証はしないけど、覚えておいて。疑念に駆られてはダメだよ?」
それでも、この言葉は焼け石に水だった。
第二では、勉強というのは安心の上に建築されていた。過度な競争心を煽るまでもなく、劣後する不安を感じることもなく、綺麗たちは伸び伸びとやっていた。
それは、ナンバースクールの生徒が「国内での」相対的な立ち位置を、理解しているからだった。
優秀層から中間層までいる、城峰の生徒たちは、学校内での地位と、学外全体での地位の両方を気にしなくてはいけない。彼らは「国内での」という視座は持ち合わせていなかった。
それは、大したことのない、たった一項の追加に過ぎないように思える。でも、彼らは不安だった。猜疑心に駆られる。自分に自信が持てない。
階層というのは一つの秩序だ。今、行われている下剋上で、階層は解体され、伝統は揺らぐだろう。
綺麗の目には、しかし、城峰の生徒がナンバースクールの生徒に劣っているとは、思えなかった。
学力を測る一方向の尺度に、子どもを当てはめるのはあまりにもったいない。
それに。
大陸の教育部は、高考で本当に人材を選抜できると思っているのだろうか。
高考に合わせたカリキュラムを作ることは、そんなに複雑なことではない。課題を出して、暗記の手助けになる背景知識を説明し、ヤマを張ってあげれば、それだけで教師の仕事は終わりだ。
頭のいい生徒だけが得をする。それは、教育ではない。
ただ、何が教育かを決めるのは、綺麗ではないし、なにより、そこに特別思い入れがあるわけでもない。
どうでもいいといえばどうでもいい。
でも、生徒は可愛かった。
***
実は、綺麗は昔ながらの檄を飛ばすのが、嫌いではなかった。
科目として担当した高三の数学で、ちょくちょく檄を飛ばした。
何年も昔に流行った、いわゆる全体主義的な文句。根性論である。
冷静になって聞くと、何の意味もないことを言っているのがわかる。
その後で、トーンを少し落として、数学の問題を解く。生徒が「またか」と思う頃には、滑らかに数学の問題に移行している。
「子どもは学力じゃない。精神力だから」
「それ、本気で思ってる?」
「本気だよぉ。彼ら、実力はあるんだから」
追仙との飲み会。今日は焼肉だった。
「綺麗に教わって、それでもできないっていうのは、怠慢だと思うか?」
「地頭議論ね。島国は、地頭信仰はなかなか強いらしいけど」
「大陸は、実力本位だからな」
「でも、変わらないと思うよ。島国だって大陸だって、受験があるから」
「島国は推薦ってのがあるんだろ?」
「私立にはね。第一学府、西都大、大学中心あたりは、今も実力制だと思う」
「戦争、早く終わるといいな」
「このままの方がいいよ」
綺麗の言葉に、追仙は耳を疑った。
「このままの方がいい?」
「このままの方がいい」
「それはどうして?」
「こっちの方が、普通だよ」
「憎み合っている方がってこと?」
「そう」
「綺麗がそんなことを言うなんてね。少なからぬ若者が命を散らせるのに?」
「世界ではなく中国としての大陸の在り方を保つなら」
「世界化に、危機感を抱いている」
「上手く言えないけどね。大陸は、大陸でないといけないから」
「それって、少し古い考え方じゃないか? 綺麗がそんなこと言うなんて、実に意外だ。島国贔屓と思っていたが」
綺麗は肉を焼き、タレにつけて食べる。咀嚼しながら言葉を選んだ。
「戦闘を容認しているわけじゃない。戦争を容認しているの。お互いの文化が混じり合い交配しない様な戦争を。私たちが欧米に行くのと、島国に行くのとは、全然違う」
「それはすでに戦争しているからだろう?」
「そうかもしれない。でも、それによって境界はきちんと保たれてきた」
「どうしてそう思うんだ? ああ、つまり、境界を引く必然性という意味で」
「だってもう、大陸的思想の系譜というものは、なくなっているでしょう?」
「懐古主義的すぎやしないか?」
「人はテクノロジーにのみ生きるわけじゃない。文化は生活を作り、生活は人生に色を与える」
「綺麗は、本気でそう言っているのか?」
「私が日系なのが気になる?」
追仙は目を逸らす。綺麗が指で合図した。
わずかな指の動きに、追仙は最初気づかない。またいくらか、言葉を交わす。身振りに合わせて綺麗はまた合図する。
口元の動きで、彼らの存在を知らせる。
彼ら。
追仙は喉を鳴らした。
当局だ。
がやがやという焼肉屋の客の声。
「黙らないでよ」
「悪い。綺麗がそんなふうなことを思っているなんて、文字通り、知らなかった」
「あんまり人には言えないけどさ」
「意外だったよ。興味深い」
会計を済ませて、店を出る。
「送るよ」
「ありがとう。でも大丈夫。追仙に迷惑がかかる」
「そうか、気をつけろよ」
「ありがとう。じゃあまた明日」
駅に着いて、すぐ後ろに見知った顔があった。第二の先輩。
「こんにちは、久しぶりですね、帝寧さん」
「久しぶりね。綺麗」
「焼肉屋にいましたか?」
「気づいていたの?」
「お手洗いに行った時、視界に入りました。声をかけてくださってもよかったのに」
帝寧は腰まで届く長い髪を後ろに縛っていた。小顔で美人。肌の色が琉璃に近い。
「私の仕事は知ってる?」
「公安、ですよね?」
「そう。少し、演技力があふれたわね」
「私の演技力は、評判がいいんです」
ぽんぽんと帝寧は綺麗の肩を叩いた。
「アングラのエージェントにコンタクトを取ったのはいつから?」
帝寧は顔を近づける。息で喉を巻くつもりだ。
「昔の話ですよ。私はここ数年忙しいんです」
「そう。島国のことについて、あなたに少し聞きたいことがあるのだけど」
「漫画やアニメのことなら。それも、大学に入るまでの知識なら、ご覧に入れましょう」
「島国に渡航したことがあるわね?」
「何か問題でも?」
「当然ながら問題だわ。大陸の情報を流出させたかもしれない」
「二十そこそこの子どもに、流出させる情報なんてないですよ」
「一緒に行った友達」
綺麗は顔を歪ませた。
「名前はなんて言った?」
「帝寧さん。それは」
「わかってる。琉璃さんでしょ? 失礼失礼」
ギリギリと奥歯を噛み締める。綺麗は首筋に汗を垂らした。
「要件は何ですか?」
「まあ、渡航のことはいい。高校で教えている情報技術もいい。島国贔屓も大目に見てあげる」
「じゃあ何ですか?」
「あなた島国の言葉が話せるでしょ?」
「ええ」
「ちょっと、手伝ってくれない?」
「断れねー」