百三十一章《唯酒》
「制約の言語回路」百三十一章《唯酒》
「大学って何?」
月雪は文佳に最近の疑問をぶつけた。
「勉強するところだよ」
文佳は答えた。
「なんという」
「なんという?」
「恐ろしいところだ」
文佳は、大笑いを抑える。空気を肺に溜めすぎた。
「そうだね」
「文佳さんは、大学行ったの?」
「ひみつー」
「ええー、なんで、なんで???」
おじいちゃんは? おばあちゃんは?
そう聞いてもみんな、笑って「秘密だよ」と言った。
ここで二つの考え方がある。
一つは、みんな大学に行っていないから、恥ずかしくてそれを言えない、説。
もう一つは、みんなが教育的謙遜をしているという、説。
凡庸な父母を見ればわかる。
答えは前者だ。
しょうがない。ここは、宿題をやるくらい頭のいい、不祥月雪が、大学に行って、お家の株を上げてやりますか!
……スイッチが入ってから、月雪の集中力は尋常じゃなかった。
綺麗に字を書いて欲しい文佳は、ギリギリ判読できる数字を見て、度々注意しようとして、堪えた。
あまりに集中しているものだから、お茶を飲ませるタイミングも逸してしまう。
あまりの脳体力に、文佳は、兄を思い浮かべた。でも、飾絵の特質は集中力というより類推能力で、おそらく、知識が潤潤と染みていく感覚は、綾衣の因子なのか? ……わからない。文佳にしてみれば未知の生物だった。
文佳とて、名の知れた大学に進学したくらいだから、勉強ができないわけじゃないのに、である。
家でも、勉強の成果は遺憾無く発揮された。
飾絵が、珍しく買い物の加算と乗算を間違えると、込み入ったものだったのに即座に訂正が入った。
それは、綾衣の訂正より一秒は早かった。
凄まじいことだ。
気がついたら、月雪は、小学校の図書館では物足りなくなり、区立図書館で本を読み、勉強することが多くなった。
綾衣が、大学帰りにピックアップして、一緒に買い物をしたり、お茶をしたりする。
月雪はその時間も漢字語彙集に目を釘付けにしていた。
そのうち、英単語を学び始めるようになる。
綾衣に英単語クイズを仕掛けるも、綾衣が答え損ねることがないのに、月雪は少し疑問を持った。
「まあ、高校レベルの問題だから」
と、言われると、月雪は悔しかった。まだ、大学レベルではないのだ。
綾衣は、家に本を置かないから、綾衣が英文学の講師をしていることは、月雪にはわからない。
飾絵にクイズを出しても、やはり飾絵は間違えることがなかった。
発奮である。
小学六年生を迎える頃には、月雪は手のつけられないレベルの知識を蓄えていた。
綾衣のその満足そうな顔。
飾絵の苦々しい表情。
「そろそろ受験がんばる?」
綾衣が、月雪の顔を覗き込んだ。
「受験?」
「塾は……必要ないね。月雪が、島国で一番頭いいところ、見てみたい」
母親の期待。初めて瞳を覗き込まれた。ような気がした。
物持ちのいい飾絵。文佳は、実家の飾絵の部屋から、飾絵が府月に行った時の参考書を発掘してきた。
徐々にわかってきたのである。
「これ、誰の?」
「飾絵お兄ちゃんのだよ」
「これ、お父さんがやったの?」
「そうなんじゃない?」
「お父さんは、府月、なの?」
文佳はとうとう言ってしまった。
「そうだよ。お兄ちゃんと綾衣さんは、府月で出会ったの」
「お母さんも、府月なの?」
府月の入試問題は、簡単なものではなかった。
月雪は、人生で初めて、焦りというものを体験した。
「間に合わない。間に合わないよ……」
動揺は、繰り返し、眠る前の月雪に襲いかかる。しくしくと泣くこともあった。
でも、月雪には学校図書室があった。
授業は完全にすっ飛ばして、いわゆる内職を(授業中ではないから正確ではないが)敢行した。
ギュンギュン伸びていく学力。
たくさんいたはずの友達が、どんな中学を受験するかも知らない。
学校のテストが満点でも、塾に行ったり模試を受けたりしていないから、まだまだ侮られていた。
「月雪ちゃん、また満点?」
「成長した」
「すごいなぁ。唯酒くんも満点だけど」
「まあ、塾行ってっかんな」
「唯酒。暇なの?」
「どういうことだよ?」
「塾? に行ってたら、勉強する時間なくなっちゃうよ?」
「勉強しに行ってんだよ」
「塾で何するの?」
「授業受けたり、テスト受けたり」
「暇なの?」
大喧嘩になった。
服を掴まれた月雪は強烈な張り手を唯酒に喰らわせた。
ぼかすかぼかすかと温和にやっているように周りには見えたが、その実、かなりの激しさだった。
「お前、どこいくんだよ!?」
「府月」
「バカか? お前にゃ無理だよ」
「唯酒は?」
「府月だよッ。お前なんか絶対受かるかよ! マジであり得ねー」
その顔面を右手で殴って、月雪は満足したらしい。
「じゃあ、唯酒。勝負といきましょうか」
「負けるかボケ。俺、偏差値65だぞ?」
「算定公式知ってるの?」
「へ?」
「偏差値計算できるの?」
「へ?」
「聞いた私がバカだった」
突如として唯酒の前に立ちはだかった壁。
ちょっと前まで、大したことのなかった女の子。偏差値の算定公式? なんだそれ?
「はいはい。月雪ちゃん。唯酒くん。そんなことやってると先生来ちゃうよー、ほら、月雪ちゃんは図書室に行くんでしょ?」
鳳来が仕切りを入れた。
「え?」
月雪は、マウントを取って、ボコす体勢だったが、思いの外強い力で鳳来に引き離された。
背の高い美人、鳳来。
「私は冷英だけど、月雪ちゃんと仲良くしておくと、いいことがありそうね」
鳳来は優しくささやいた。
***
受験会場への送り迎えで、飾絵と綾衣は月雪に帯同した。
直前模試の判定は堂々のS。上から数えて15番目だった。
それが意味するのは、単なる綾衣の安心でしかなく、月雪は何をやらされているのかもわからないまま「とても簡単な頭の体操」を終えた。
さすがに、試験前はピリピリするかと思いきや、完全にリラックス。
リビングテーブルでひねりの効いた算数を、凄まじいスピードで片づける。
ノートまとめとかはしない。記憶力がいいのだ。
校門で、綾衣と飾絵は呼び止められた。
「綾衣ぅ。それに飾絵ぇ。お前ら、付き合ってたんかいぃ」
綾衣はぺこりと頭を下げる。
「先生、結婚式呼ばれてないんだがぁ」
「まだ式は挙げていません」
「お子さん? ん? お前ら、そんなに早く?」
わらわらと先生たちが集まってきた。
「名前は言うなよ。不正になっちまうかもしれねぇからな」
「ほら、いってらっしゃい」
「おかーさん。知り合い?」
「先生。ちょっとした顔見知りよ。心配しないで。いってらっしゃい。あなたを、待ってるから」
珍しく、月雪は何度も振り返って、綾衣と飾絵を見た。
綾衣は手を振り、飾絵は頷いた。
おそらく、島国で一番優秀なカップルを背に、月雪は会場となる府月中高の建物の中に入っていった。