百二十九章《城峰中高》
「制約の言語回路」百二十九章《城峰中高》
第四蹴り。第二蹴り。
それは、「下剋上」のムーブメントが、一旦ピークを迎えたことを象徴するような単語だった。
***
綺麗は、ちょっとした好奇心で、プライベートスクール運営の「城峰中高」の教師になることにした。
かなり面白いことに、そこには多くのナンバースクール出身の教師がいた。
顔見知りはいなかったけれど、すぐに仲良くなった。
追仙は第四の出身だった。
第四の中では平凡な成績で、南都大学に進み、なんの潰しも効かない文学に傾倒したことで、就職先が限定され、城峰に来たらしい。
城峰中高での教師の裁量は大きく、知っていることはなんでも教えてよかった。
綺麗は当局の追跡を逃れる情報技術やフランス語、島国のサブカルチャーを、大変上機嫌に教えた。
「なんの役にも立たないんだよ」
綺麗は言った。「でも、楽しい」
生徒たちは「それ」に一年もすれば気づく。何か変だ。どうして忙しくて非人間的な生活をしていた、綺麗や追仙が、こうまで生き生きと、知識を披瀝するのか。
詰め込みで、ゲームをやる時間もなかったのではないのか。
ある生徒は綺麗に聞いた。
「漫画やアニメは、いつ観ていたんですか?」
「んー? 宿題の後かな」
「でも、ナンバースクールの宿題は、多すぎるって」
「お母さんが言ってたの?」
クラスはわっと沸いた。
「そう。お母さんが言ってた」
また、笑い声が響いた。
「そっか、お母さんは優しいね。詰め込まなくていいって、瑞は教えられたんだ」
瑞と呼ばれた女の子はうなずいた。
「みんなは、実に簡単なことを忘れている。詰め込みに耐えられるのは、手早く先取りして、解法を熟知している問題を片付けることができる時だけ。私は、勉強を先取りするのは呼吸のように簡単にできたし、宿題は一目見ただけでできた。第四や第二の宿題が《詰め込み》だと思うか思わないかは、第二でも分かれるわ。島国では深海魚と言うらしいけど、どこの高校でも深海魚は、カリキュラムが詰め込みだと思うらしい。でも、私は一度も思ったことがない。忙しいのは、サブカルを片端から大陸語に翻訳することとか。詰め込まないと、身につかなくない?」
それは、多くの教員から、生徒たちに突きつけられた、厳しい現実だった。
確かに宿題は少ない。ゲームをする時間もある。暗記ものは任意だし、面白い授業も目白押しだった。
でもそこで教壇に立つ教師は、ほとんど全員が、詰め込みという枠組みの粋を極めた、一流の受験プレイヤーだった。
自由闊達に勉強するカリキュラムは、主にアメリカに留学した経験がある教員によって進められた。
思考力や論理性、エビデンスを基にした推論などを教える。
でも、やってわかることなのだが、それらの教育は、知識でも思考力でもなく、思考の癖なのだ。
常に「理由」を考えて思考することは、根拠のない詰め込みよりよっぽどいいように思われた。
ただ、退屈であることを除けば。
脳が動いている感覚に、最初は酔った。アディクションに陥る。
それが頭がいいことだと、錯覚した。
綺麗も追仙も、それを全く否定しなかった。大学でそういうような思考の癖に関しての研究を、読んだことがあったから。わざわざ指摘してやるまでもなく、その魔法は、教員との対話を通して、解けていく。
綺麗は、上首尾に情報技術を生徒たちに教え、島国のサブカルも、かなり深くに植え込んだ。
その中で、何人か、優秀だなと思う生徒を見つけた。「新しい世代」の名に相応しいかは、わからなかった。でも、独特の感覚を持つ、際立って珍しいタイプの子供たちだった。
***
鋼という名前の男子中学生は、実に吸収が良かった。耳がいい。
そういう生徒は、もう過去のものになりつつあるナンバースクールにもあまりいなかった。
ナンバースクールは、ほとんど、目がいい生徒ばかりだった。
鋼の場合、目で見る学習は不得手。音読から始まり、授業でのわずかなコメントからも、膨大な情報を膨らまして引き出した。
受験とは、結局目であり、学習の本質である耳とは、相性が悪いのだ。
耳はメタファーと通じる。音の類推が、連鎖的に知識を呼ぶ。それが凄まじかった。
鋼に文章を書かせる必要を感じたのは、綺麗だけではなかった。
オーダーメイドとまでは言えないけれど、柔軟に課題を出せる関係で、追仙は、韻文の基本を教えようとした。
韻文なんて、ナンバースクールにいれば当たり前に教わるのに、こんなことでカリキュラムを一から作らなきゃいけないのに苛立ちを覚えながら。
追仙がぼやくと、綺麗は追仙の肩を叩いて、ニヤリと笑った。
「無理だと思う。残念だけど、根性が足りないから、持たないよ」
それがどういう意味なのか、追仙にはすぐに明らかになった。
能力を開発するという感覚が、鋼にはなかった。嫌なことをやりたくなかった。押韻を覚えていくのは、根性がいる。ちょうど綺麗が言ったのと同じように。
綺麗にはそれがわかっていた。よくないとは知りつつ、いつも皮を剥いて、柔らかく煮込んで、味付けを整えて、わかりやすく美味しい知識を伝達した。難しいことは全て先延ばしにして。
「いいんだよ。なにもソルボンヌに行くわけじゃない。勉強がつまらないのは良くないよ」
綺麗は、半ば本気でそう思っていた。
前記の通りではある。つまり、詰め込みは優秀な学生にしか効果がない。
部活のような、研究サークルは、その文化の初期段階で、知的な文化土壌を成熟させるまでには、まだまだ時間がかかりそうだった。
綺麗は情報系のサークルの責任者で、追仙は読書のサークルの責任者を担っていた。
ナンバースクールの、個人と個人の自然なネットワークがない、バラバラの個性をどう率いていくかに関して、追仙は多くをアメリカ帰りの教員に譲った。
枠組みを作らないことで、方向性という概念が消えた。
自由であり、主体的。
ただ、追仙にはその教育がお遊びに見えた。
綺麗との呑みの席で、追仙はこぼした。
「頭が悪すぎる」
「違うよ。追仙が頭がいいんだよ。遊ばしとけ遊ばしとけ」
「綺麗は、実に上手くやってる。どうして俺はこう空回りするんだろ」
「頭がいいからだよ。ここではそれは才能でもなんでもない。でも、中学生からあんなんだと、大陸はどうなるんだろうね」
「人材は」
「枯渇するだろうね」
追仙は大きなため息をつき、酒をあおった。
赤い火鍋をつついて、汗を出す。
「どういう運動なんだろうな」
「島国にも昔、自称進学校っていうのがあったらしいよ」
「名前がひどいな」
「受験のために、宿題を課したり、授業のほかに補講がある」
「うちの高校とは全く違うな」
「チッチッチッ。見ていなさい。みるみるうちに、こういう高校は自称進学校になるわ」
「なるほど……」
「仮の専門性も、自由なカリキュラムも、全部ぜーんぶ、反転する。そうするときっと、この今私たちの授業を受けている世代は、どうなると思う?」
「史上最悪の学力」
「真逆。史上最高の頭脳集団になると思う」
「どうしてそう言える?」
「だって私が自由なんだもん。先生が自由、何を教えてもいいなんて、そんなこと当局が許すはずない。早晩禁止される。鋼や瑞は、奇跡の世代になるでしょうね」
「もう一つ教えてくれ。なんで、《反転》するんだ?」
「知的に卓越したナンバースクール出身の先生がいなくなるから。そうでしょ? 私たちは受験戦争の申し子よ?」
綺麗は、嬉しそうに笑った。珍しく、受験なんて言葉を出しているのは、酔ったからなのかもしれなかった。